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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

品川宿、今昔、街の変遷〔4171〕2014/09/16

品川宿、今昔、街の変遷

2014年9月16日(火)晴れ!

そんな訳で今朝は東京。昨日の夜は、銀座にある高知県のアンテナショップ2Fのレストラン「おきゃく」にて、食事をば、しておりました。エレベーターに「空調設備故障中につき、ご迷惑をおかけします」の貼り紙。ウッソ〜。
確かに店内、少しモワっとしちょります。かつお人間の団扇をくれました。しかし、窓を全開にしちゅうので、結構涼しくなってきて、快適でした。こりゃあ、涼しい日は空調無しの方が高知らしゅうてエイがやないろうか、とも思うたことでした。

さて。
今朝は5時前に起き出して、築地RUN。「若葉」の極細縮れ麺のチャーシュー麺を、朝っぱらからおいしゅう頂いてきました。ああ、朝築地。この魔力には、誰も勝てません。
泊まっちょったのは、京急線の、新馬場駅の近く。旧東海道に立地するホテルでした。旧東海道を走って都心へ。写真は、その東海道沿いのホテルのしゅっと南。目黒川に架かる目黒橋。橋の向こうが南品川で、こちら側が北品川。ここを中心に、品川宿は、南北に広がっちょったのでありますね。
要は、目黒川の河口部に広がる街。
江戸から出発して、東海道最初の宿場、品川。まあ、今朝、築地までしゅっと走れたくらいですき、そんなに江戸からは離れておりません。なのに、繁華な宿場ができちょったのは、江戸時代の皆さんのゆったりした生活からくるものかも知れません。

現在のJR品川駅は、この、本来の品川宿中心部から言えば随分北の外れになります。それも、品川区ではなくて港区にあるがですね、品川駅は。京浜急行に乗ると、品川駅から南へ最初の駅が北品川ですきんね。品川駅の南に北品川。これは、北品川が、本来の地名に由来しちゅうきに他なりません。

で、この界隈の東海道を走りよって気付いたこと。それは、街道は、海抜の高い尾根筋を南北に延びている、ということ。旧東海道から左右を見ると、下り坂になっちゅうがです。旧東海道から北を見るとなだらかな斜面が下っていきますが、かつては、そこが海やった訳です。品川は、江戸の海の玄関でもあった訳で、今からは想像もできんような賑わいを見せておりました。

もちろん遊郭、遊女も多く、そういった風俗は、戦後の赤線廃止まで、品川の名物でもありつづけました。
幕末太陽伝。フランキー堺主演の、今でも評価がこじゃんと高い時代劇コメディは、品川遊郭が舞台でした。居残り左平次という落語を基につくられた映画で、そのオープニングには、映画がつくられた時代(昭和32年頃)の、赤線地帯品川の、すこし寂れ、猥雑になった品川が紹介されちょります。そう。品川宿の中心部は、維新後、どんどんと嘗ての華やかさを失い、寂れていったと言います。

その理由は何と言うても、品川駅。
上に書いたように、東海道線の品川駅は、とっと北の港区につくられました。その理由のひとつに、地元の反対運動、というのがあったそうです。そんな訳の分からんもんができてしまうと、宿場町が寂れてしまう、と地元が考えた訳です。
結局、鉄道が庶民の移動手段として確立するに連れ、現在の品川駅界隈が賑わい、旧東海道品川宿界隈は素通りの街となってしまい、遊郭の名残りの赤線のみが場末の雰囲気を醸し出すことになった訳です。

赤線が廃止になり、今は、江戸情緒を売りにした町並みづくりが進んで、観光客もやってくる街になりました。京急新馬場駅の海側。

街づくりは「思想」。将来の街を想像し、考えんと、佳い街にはならない。一生懸命考えたとしても、それが却って街を寂れさせていくこともある。そして、機能だけではなく、ひとが集まり、楽しむ場所であることを、街は忘れてはならない。目の前のことだけを考えると、必ず失敗します。
そんなこんなを、朝の品川宿で考えております。


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