堀川の桜、先人の志〔4002〕2014/03/31
2014年3月31日(月)晴れ!
良いお天気。昨日の高知はよく晴れたようで、気温も上がって夏日やったそうです。そんな中のお花見は楽しかったでしょうね〜。小生は、松山の会合からモンて来て宴会。夕刻モンて来た際は、ここ、堀川沿いは大勢のお花見客で賑わいよりました。が、宴会が終わって帰る頃合には、もう、すべて撤収が終わって静かな静かな風情でございました。
ここは今朝の堀川。大鋸屋橋の上から撮影してみました。右手にホテル日航高知旭ロイヤルさんが見えます。高知市の桜の名所、堀川。
この堀川をはじめ、高知の城下にはたくさんのお堀がありました。北に大川(江ノ口川)、南に潮江川(鏡川)で、その川の間をつなぐように南北に、そしてその南北の堀と交差するように東西に。
この堀川は縦堀と呼ばれ、この西の四ツ橋の所で横堀と交差。南北が横堀で東西が縦堀。
ややこしいのは新堀川。今、その横堀のことを新堀川と呼び習わしよります。江ノ口川からはりまや橋小学校までは暗渠にされてしもうた新堀川。あれは元々は横堀。で、元来の「新堀」は、今のはりまや橋小学校の南。横堀から西へと掘られちょった堀が新堀。
その場所には、山内一豊さんの城下町建設当初、赤岡町、佐賀町、樽屋町の3つの町があったそうです。そこに、寛永二年(1625年)、つまり二代藩主忠義さんの時代ですが、その3つの町の人々が、私費で、横堀から西へ新堀を掘り、両側に道をつけて新しい町としたのであります。で、城下での林産物の専売権が与えられ、それで材木町と呼ばれるようになった訳ですな。つまり、その新堀に材木を浮かべて商いをしたがでしょう。
本来の新堀は、現在の新堀川から西へ延びる堀で、現在の新堀川は横堀であった、というややこしい話。
この写真の右手は九反田で、左側は農人町。何度も書いてきた通り(まあ、11年も書きよりますので同じネタはビッシリ出てきまする)、藩主の御手先農民を住まわせたので農人町。寛永二年、つまり新堀開削と同じ年のこと。現在の宝永町のところに南北の堤を構築、その堤の内側を農地として、藩主用の耕作地とし、御手先農民に耕作させた訳です。寛永二年という年は、土佐藩のインフラ整備において重要な年であったことがよくわかります。
その後、この西側界隈がお城下の表玄関になり、物流の拠点として発展、この堀川も物流の大動脈として毎日夥しい舟が行き来するようになったのはご承知の通り。今のかるぽーとの所に中央卸売市場があった昭和40年代まで、この堀川は殷賑を極めたのでありますね。
今は静かな静かな堀川。
以前にも書きましたが、テレビ高知の「おらんく風土記」という番組のアーカイブで、はらたいらさんがここ堀川のことを紹介しよりました。地元の回漕店の横山さんが、この堀川界隈の昔の様子を話しながら、川沿いに植えられた小さな桜の樹を指差して、「あれは地元のヒトが自主的に植えた桜ながよ。あれが将来大きゅうなって、花見ができるようになったらエイのう」といったことを喋っておりました。その言葉通り、今、見事に桜が大きくなり、高知随一の花見の名所になりました。先人の志、ここにあり。
桜の木は、そんなに何十年も持ちません。その盛りは、意外と短いかも知れない。今、自分たちの子供の世代が楽しめるような仕掛けを、我々は、心がけていかんといかんと思いました。今、目の前ではなく、将来の夢、志の大切さ、尊さ。
この桜並木が教えてくれること。