大分駅前で戸次川を考える〔3965〕2014/02/22
2014年2月22日(土)大分は晴れ!
大分駅前。夜明け前。空には半分のお月様。大規模な再開発が進む大分駅前です。
昨夜は、大分市内でグッスリ飲りました。関サバ、おいしかったです。かなり焼酎を飲んだので、今朝は身体が重たかったのでありますが、なんとか起き出しました。
大分駅前の再開発は、なかなかの規模。あの向こうにあった大友宗麟公の像も、移設されちゅうにかありません。豊後と言えば大友宗麟。昨夜、ご一緒させて頂いた方は大友さん。やはり大友宗麟公の血を引く方とのことでした。さすが、豊後の国。
で、戦国後期、大友氏は、薩摩の島津氏の圧迫を受けます。そこで、天下人まであとちょっとの秀吉は、大友氏を支配下に組み込み、島津に対しました。そして、攻略したばかりの四国の長宗我部元親さんや、十河氏に援軍を出すよう指示。長宗我部軍3000は、ここ、大分市に駆けつけました。そして天正14年12月(1586年1月)、現在の大分市郊外、戸次川に布陣。
この際、その援軍の責任者たる軍監として使わされておったのが仙石秀久。土佐人にとっては、あまりにも許しがたい人物。島津勢の規模と作戦を読んだ元親や嫡男の信親は、このままでは勝てないと見て、大友軍との合流を待とうとします。しかし、責任者たる仙石のバカが、焦って、高圧的に冬季の渡河と攻撃を指示。やむを得ず攻撃に出た長宗我部軍は、当然のように敗北。勝手な命令を出した仙石秀久は、こともあろうか軍勢を放棄して逃げ出し、あっという間に讃岐まで逃げ帰ったという醜態。
この、戸次川の戦いで、長宗我部元親さんの嫡男、信親さんが討ち死に。土佐勢700を含む2000人の犠牲を出しました。
長宗我部氏の不運は、ここに極まります。
歴史に「もしも」が許されるなら、ここで信親くんが討ち死にしなかった場合を妄想してみましょう。勇猛果敢にして兵の信望も厚かった信親くん。当然、元親公の後を継ぎ当主として土佐一国を治めます。関ヶ原では、その戦略眼の確かさから、うまく立ち回り、徳川政権になってからも土佐の大名として勢力を持ちつづけることになったかも知れません。藩政期の土佐の大名は長宗我部氏、という妄想。これは、かなり可能性の高い妄想やと思います。
信親くんが亡くなったので、跡目を巡って家臣たちに争いが起こり、一族の結束に乱れが出て、関ヶ原の際の判断に狂いが生じた、と考えられるきです。
そんな訳で、土佐人にとっては、仙石秀久は、どうしても許せない人物なのであります。
昨日、時間があったので、戸次川の、信親公終焉の地の碑がたつ場所と、その近くの信親公墓所をお参りしてきました。念願の戸次川。立派な碑は、今でも、戸次川で犠牲になった兵士や信親公の子孫の皆さんが、その戦の悲劇を思い、偲んでいることを教えてくれます。
そんな大分の朝。