高知市高低表圖〔3796〕2013/09/06
2013年9月6日(金)秋晴れ
昨夜は寒いくらいの過ごしやすい夜。そして、虫の音。今朝もこれまた心地良いですね。こないだまでの猛暑や大雨が嘘のように、さわやかなお天気が続きます。
さて。
そんな訳で、昨日の宝永町ネタの続き。昨日書いたように、高知市さんが発行した「描かれた高知市」という地図帳には、興味深い地図がどっしこ掲載されちょります。今朝はそのひとつ。
昭和2年に発行された「高知市高低表圖 平均満潮位区域圖」というもの。市域の標高図を、125地点でミリ単位まで記載したという優れもの。
これを持っちょったのは、このにっこりでも何度かご紹介した清水真澄さん。そう。昭和初期から戦後復興期まで、高知市役所で、高知市の都市計画、土木工事に大活躍した清水真澄さん。昭和の百々越前と呼ばれた清水さんは、高知市の土木部長をつとめました。
日本最初の沈下橋を鏡川の柳原に架橋することを推進したがも清水さん。戦後、電車通りを今の様な広い道路にする復興都市計画を立てたがも清水さん。市役所の役人さんとしては、高知市史の中で、もっとも有名な人物かも知れません。
その清水真澄さんが持っちょったがが、この高低図。
よくご覧下さい。中央ちょっと右手に、電車が、T字型に分岐して南へ延びちゅうところがあります。分岐が今の知寄町二丁目電停。と、言うことは、そこを左へ行って、赤い等高線があるところ。そこが、昨日撮影した宝永町になります。赤い等高線は、海抜0m。0.0と、手書きで書き加えられちょりますよね。その左の水色の部分が海抜1.0m。知寄町二丁目電停附近に薄緑の等高線があって、海抜マイナス1.0m、その右手の紫がマイナス2.0mという訳です。
これはわかりやすい。
丁度、昨日の宝永町のところが海抜0mで、菜園場界隈からは突然低うなっちゅうことがわかります。
なるほど。
これを見れば、山内時代の城下町で、ここに南北の堤を構築して海からの水の流入をストップしょうとした意図が理解できますよね。何故、この地点であったのか。
もっと言えば、城下町ができる前、何もなかった現在の高知市街地がどんな地形で、その地形をうまく利用して、都市を建設していった、ということもよく解ります。
以前、江戸が、その起伏に富んだ地形を見事に利用して建設された、世界に例を見ない都市である、てなことをここに書いたことがあります。
高知の城下も、一見平坦な、のっぺりした土地につくられたように見えて、実は、このような微妙な高低差を利用した街づくりが為されちゅう、ということも解ります。
「高低表圖」とあるように、この図面には「表」が埋め込まれちょります。その表が、市内125ヶ所のミリ単位の標高を一覧にした表。惜しいことに、この、「描かれた高知市」に掲載されちゅう地図はかなり縮小されちゅうので、その表の詳細が読み取れません。高知市民図書館に所蔵されちゅう地図やそうですき、今度、じっくりと見にいってみんといけませんね。
その高低を地図に落とし込んだら。
江戸の町のように、お城周辺で一番高い尾根筋に幹線道路を通し、それに長屋門を向けて家老級のエラいてさんの大きな屋敷が並び、坂を下る程、身分が低く屋敷が小さくなる、というひまわり太郎妄想仮説を、今一度検証してみることができます。
ともあれ、最近、津波の浸水予想図というのが発表されますが、それはそれとして、市街地のこのような一目でわかる標高図も見てみたいと思いました。
都市計画を考えるヒトは、こんなものも含めた、ありとあらゆる情報を元に、考えんといかん訳です。それは、将来の社会の予測も含めて。並の人物ではできんこと。