毘沙門の滝、滝本寺は、この湖底に〔3703〕2013/06/05
2013年6月5日(水)薄曇り
朝は、梅雨の晴れ間で、良いお天気でしたが、ちくとうす雲ってきました。けんど、まだ降りそうにはありません。ここは南国市の滝本。
高知大学医学部の北の道を西へ、高知向いて行き、逢坂峠への上がり口の手前を右折して小川沿いに北上していきますと、大きな池があります。そして、耳を澄ますと水音。毘沙門の滝。
子供の頃、親に連れられて来た記憶があります。毘沙門の滝。ところが、どういう訳か、最近は見向きもされてないようですね、毘沙門の滝。
高知市民にとって、この場所は、ラブホのある場所、てなイメージが強過ぎるがかも知れません。しかし、行ってみますと、実に良い滝と湖の風景。こんな、市街地の近くに、驚くような美しい滝があることは、メッソ知られちゃあせんがぢゃあないでしょうか。
しかし今日の写真は滝ではありません。ゴメンナサイ。
滝は、こっから北側にあります。二段になった結構大きな滝で、近づくと涼しい風が吹き、マイナスイオンたっぷり。その滝の見える位置、こっから石段を上がった高い場所に、毘沙門堂が鎮座ましまします。朱塗りの、美しいお堂。その毘沙門堂は、長宗我部元親さんの嫡男、信親くんによって創建されたとされます。そう。豊後戸次川の戦いで惜しくも戦死した、信親くん。
元々、ここに、滝本寺というお寺さんが鎮座。由来は、弘法大師さんが、土佐の国分寺に向かう際に、この滝音に引き寄せられてやって来て、ここで身を清め、毘沙門天像を彫って安置した、という伝説が残る滝本寺。国分寺奥の院であるともされます。
で、天正7年(1575年)に、長宗我部元親信親親子によって再建。信親くんによって毘沙門堂建立。ときに信親くん、14歳。
その滝本寺は、僧が、長宗我部配下で活躍したことで有名。当時、栄音と非有という二人のお坊さんが在籍。秀吉軍に破れ、土佐一国を安堵されてから、この二人が、外交、内政に手腕を発揮したとされます。栄音さんの方は外交、非有さんは内政。今、読みゆう「土佐物語」には、非有さんのことを、毛利の安国寺恵瓊と一対坊主と呼ばれた重要人物であったように書かれちょります。
本当は、どの程度、長宗我部配下で活躍したのかはわかりませんが、まあ、活躍したのは確か。
しかし、関ヶ原は、そんな土佐の様相を一変させました。
非有さん、長宗我部家臣たちに浦戸城周辺に集まり、山内氏に対して徹底抗戦をするように呼びかけたという話も残ります。なかなかの人物。
しかし、いつしか、その滝本寺も廃れました。この、湖の底に沈んでいる、とされます。湖畔の大きなアヒルは、近づいても逃げようともせず、湖底に沈む滝本寺を守っているかのようでした。
今は、石段の上に、信親くんが創建した毘沙門堂が残るばかり。現在のお堂は、安政3年(1856年)に建てられたもの。安政南海地震の2年後。信親くん建立の建物は、もしかしたら安政南海地震で被害を受け、そして再建されたがかも知れません。
めったにヒトも訪れない、静かな静かな毘沙門の滝、滝本寺、毘沙門堂。