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67年前の初夏、この風景のなかで〔3369〕2012/07/06

67年前の初夏、この風景のなかで

2012年7月6日(金)晴れたり曇ったり

ここは住吉野。南国市の、グドラックさんの南。左手にあるのが船岡山で、住吉大明神さんが鎮座ましましちょります。ですきに住吉野。この西が伊達野(いたちの)、その西が介良野。この東が西野々、大そね。

こないだ、県立図書館で、「高知海軍航空隊 白菊特別攻撃隊」という本を借りて来て読みました。今の高知空港の場所に、戦争後期、海軍が飛行場を建設し、白菊という二人乗りの練習機を配備して予科練を出て来た若い兵隊さんを中心に訓練しよった訳です。その練習隊が、練習機「白菊」とともに、神風特攻隊に組み入れられていったことを書いた本。

その本によりますと、その練習航空隊が、飛行場とともに日章に開設されたがは昭和19年3月15日。このにっこりで何度も書いてきたように、そこにあった標高28.2mの山、室岡山、通称「命山」を崩す作業は手作業で行われ、大変やったようです。

昭和19年10月頃より、日本軍は、飛行機による体当たり特攻攻撃を始めました。これは、大本営の考えであったことは、現在では疑いもない話になっちょります。そして戦況はどんどんと悪化、昭和20年2月に、沖縄戦を想定した研究が行われ、そこで、練習機も加えての特攻をやることが非情にも決定されたのでありました。

高知の練習航空隊が使用していた「白菊」は、スピードは零戦の半分以下。最高速度230km、巡航速度176kmで、丁度新幹線くらい。飛行機ですが。それで、米軍の艦砲射撃やグラマンの攻撃を避けながら敵艦に体当たりを仕掛けるという無謀な作戦。しかも、搭乗員は、練習を終えたばかりの実戦経験のない若者達。
高知の練習隊で志願のかたちを取りましたが、なかなか、あの状況、雰囲気で志願しない、というのはかなり勇気のいったことだと思います。

神風特攻隊白菊部隊の第一陣が鹿屋に移動、沖縄に向こうて出撃したのは昭和20年5月24日深夜から翌未明。8機が未帰還。通信機等も搭載してないので、特攻に成功したかどうかも検証できない、そんな行ったきりの孤独な特攻でした。1機に2名づつ乗っていくので、16名の若者が戦死。
第二次攻撃隊出撃は一次のすぐ後、5月25日払暁。しかし、離陸途中で、沖縄付近の敵攻撃が激しく中止。3機飛び立ったが2機は敵機の襲撃をうけながらも何とか帰ってきたものの、1機は未帰還。2名戦死。
第三次攻撃隊は5月27日出撃、12機が未帰還で24名戦死。

出撃をとりやめた第二次攻撃隊は、一度、高知へ帰ってきました。飛行場近くの兵舎は、別の部隊が使い始めちょったので、住吉野、船岡山南東につくられた、壁も窓もない、竹作りのバラック兵舎に入ったそうです。
写真の正面辺りでしょうか。

そしてその後、近所の武市重美さんという方の納屋を借り上げて兵舎にしたそうです。当時は、そうやって民家を借り上げたりして兵舎にしました。
それとは別に、休日とかに外出許可を得て外に出た際にゆっくり泊まる下宿を、個人で借りちょった兵士も多かったようです。

ここから空港にかけて、そんな、若い兵士を下宿させた家がたくさんありました。16歳から19歳くらいの、まだ少年と言うてもかまんような若者。そして、その多くは、行きの燃料しか積んでない飛行機で帰らぬ特攻にいくことが決まっちょった兵士。
その子達を見送るという、辛い辛い思いをしたひとたちが、67年前の初夏、ここから空港までの間にたくさん居たということを、あらためて知りました。

一時的に帰ってきた隊員達も編成し直され、再び鹿屋へ。そして6月21日出撃。また、多くの若者が沖縄の海に散っていきました。


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