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数百年前、潮江川蛇行の痕跡〔3337〕2012/06/04

数百年前、潮江川蛇行の痕跡

2012年6月4日(月)薄曇り

高知市に鏡村や土佐山村が合併して、鏡川は、その源流から河口まで、すべて高知市内を流れる川となりました。清流鏡川。高知市民のシンボル、鏡川。
その川は、昔は、流れる場所によって違う名称で呼ばれました。で、もちろん、その下流域では潮江川と呼ばれました。

元禄の頃、第5代藩主山内豊房さんが、その鏡のような美しさを愛でて「鏡川」と命名した、と言われます。その鏡川、つまり潮江川の痕跡がここ。

国立公文書館のデジタルアーカーブで、正保元年(1644年)に土佐藩から幕府に提出された「土佐国城絵図」を見ることができます。以前にも書きましたが、この絵図は、実際の城下町をそのまま写したものではなく、設計図的なものであったと言われますけんど、その後に作成された寛文9年(1669年)の高知城下図と見比べても、街のつくりは基本的に違うちょりません。

その「土佐国城絵図」をご覧下さい。お城の南東に、水路で馬蹄形に囲まれた場所があります。ちょっと不思議な形状。実は、その馬蹄形水路は、ここに城下町が建設される前の、潮江川流路の痕跡。
つまりですね、潮江川は、この部分で現在よりも北に蛇行しちょったようで、城下町形成時なのかその前の長宗我部時代なのかわかりませんが、潮江川の流れをまっすぐにして、川の痕跡を水路にした、ということにかありません。馬蹄形の部分は、元々、潮江川の中洲やったということです。

その馬蹄形の部分が島みたいなので、中島町と呼ぶようになり、そこを通る東西の通りが中島町ということになった訳です。
さて、その馬蹄形の中の中島町の南に東西に通りがあり、寛文の高知城下図によりますればその通りに面して8軒の武家屋敷があります。ですきに八軒町でしょうか。その後、屋敷地は分割されて19世紀頃になると9軒になっちゅうことが判っちょりますが、やっぱし九軒町ではのうて八軒町。

話が脱線しましたが、この写真。今朝、4時半頃。
三翠園様の北の通りを東へ行った場所。NTT南局の東の道路から南向いて撮影しました。この交差点の部分、なんとなく不自然に広く、歪な形をしちゅうと思いませんか?
そう。ここが、その馬蹄形の水路の痕跡と言われる場所。水路と言いますか、馬蹄形の池であった訳ですが、その池は幕末を過ぎ、明治の頃まで存在しちゅうようです。その後埋め立てられ、中島町や八軒町という町名を残すのみとなりました。
その馬蹄形の池の、西の部分がここ。東の部分は、もう、痕跡も残っちょりません。

このように、城下町の痕跡が、高知の街中にはいくつか残っちょります。例えばこことか
その痕跡の場所に立って、遠い昔に思いを馳せるがも、また、楽しいのでありました。


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