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今日のにっこりひまわり 毎日健康社員日記

中天の皎月と皎月院と娘〔4495〕2015/08/06

中天の皎月と皎月院と娘

2015年8月6日(木)晴れ

久々に少し雲の多い朝。雲は多くても、今日も暑うなる予報。善き哉善き哉。
会社の、小生の部屋の外から聞こえてくるクマゼミの声も、今がピークでしょうか。夏、真っ盛り。

さて。
写真は、今朝4時半頃、いつもの上岡八幡宮さんの参道から見上げた月。中天に、ぽっかりと浮かぶ半月。昨夜の月齢は20.1なので、今朝はちょうど半分のように見えました。
空高い場所に浮かぶお月様を見ると思い出すのが、
一輪ノ皎月 中天ニ 輝クヲ見タリ
という一文が刻まれた碑。以前にも何度かご紹介した、鏡川沿い、三翠園さん西側の公園の一角に建てられちゅう、馬場孤蝶さんの歌碑。

馬場孤蝶さんは、自由民権運動を代表する論客であった馬場辰猪さんの実の弟。で、ロシア文学に精通し、明治の文壇に重きをなした人物。ロマン派に属しますが、島崎藤村などと深い交流があったことはよく知られちょります。何せ、明治学院で藤村と同級。かなり影響を及ぼし合うちょります。
また、5000円札の樋口一葉さんにも、かなり頼られたりする関係となり、日本の文学の中でも重要な立ち位置に居た、馬場孤蝶さん。樋口一葉さんはかなり繊細にして強かったとされ、その彼女に頼られる馬場孤蝶さんの懐の深さが妄想できます。

一輪ノ皎月 中天ニ 輝クヲ見タリ
明治学院に通う頃、島崎藤村くんの部屋へ行って語り合い、夜、自分の部屋へ帰ってから、ふと外に出てみると、空に一輪の輝く月。それを日記に「一輪ノ皎月 中天ニ 輝クヲ見タリ」と書いた馬場孤蝶くん。

それはともかく、皎月とは輝く月のことですが、皎月院は石田三成の奥さん。正室。秀吉の有力家臣であった宇多頼忠の娘。関ヶ原の際、父頼忠や弟などと一緒に佐和山城におりました。関ヶ原に西軍が敗れ、寝返り小僧の小早川秀秋が家康の命によって佐和山城に攻め込む。で、三成家臣の土田桃雲が、皎月院ら婦女子を刺し殺し、城に火を放った、という話。

さて。三成には、三男三女の子供があったと言う。その他にも、側室などに産ませた子供があったとも言い、例えば、越後高田に、三成の末子である娘が乳母に抱かれて落ち延び、子孫を残した、という言い伝えもあると、ウィキに書いちゃあります。
そして、これは高知の皆さんはご承知でしょうが、九反田の九反田地蔵尊。
三成の小さい小さい娘が、関ヶ原の後、乳母に抱かれて、土佐の称名寺住職を頼ってやってきた、という伝説。頼ってやって来たものの、7歳で、腫れ物を患って病死。
それから200年以上が経過。文政年間、その場所に建てられておった米倉が鳴動するので、掘ってみたところ、首の無い地蔵尊と「天周妙終尼 慶長十八年六月二十二日」と書かれた碑が出て来たと言います。この天周妙終尼が、三成の娘である、ということで、慌ててそのお地蔵さんと碑を祀ったのが、九反田地蔵尊。いや、この話、以前にも詳しゅう書きました。
しかし、ウィキには載っちょりません。土佐では有名な伝説。越後高田はウィキに載っちょりますが、土佐の九反田は載っちょらん。
しかし、各所に、そんな伝説が残っちゅうのは、三成人気が結構広がっておったことを示すものかも知れませんですな。

その、土佐へやってきた娘は、皎月院の産んだ娘さんでは無いのでしょう。7歳で夭折した少女は、土佐の地で月を眺めながら何を想うたでしょうか。

しかしまあ、こんな写真をネタに、ダラダラダラダラ書けてしまう自分に感心してしまいます。ああ。暑い。


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