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井上俊三さんの謎〔5248〕2017/08/28

井上俊三さんの謎

2017年8月28日(月)曇り

昨夜は蒸せた。蒸せました。朝の気温というのは、毎日、そんなに変わらんようです。25℃~27℃。でも、その1℃2℃の違いが、身体に暑いか涼しいかの微妙な境目。それに湿度要因を加えて、その夜が寝やすいか寝苦しいかが決まってくるのである。まあ、そんなことはどうでもよくて、暑いものは、暑い。

 

ここは今朝、4時過ぎの潮江天満宮。まだ虫の音も響かない、静かな静かな境内。拝殿の扉も、まだ、閉じられたまま。

参道は、手水から楼門をくぐって進むと右に曲がる。さらに進むと、石段を2段、上がる。上がったところの両脇に、牛の臥像。それぞれの臥像の横に、御寄進された柱。南側の柱には大正七年六月と刻まれ、北側には「御寄進 高知市農人町 井上俊三 同市同町 窪川馬太郎」と刻まれる。

気になるのは、この、井上俊三さんだ。以前にもご紹介したこと、あります。

井上俊三と言えば、高知の写真家の嚆矢

天保五年(1834年)九月に、高知の城下で生まれる。龍馬よりも1歳年上ですな。で、長崎で蘭学者に学び、帰高して要法寺町で医者を開業したといいます。で、幕末も幕末、慶応年間になって、藩の命で再び長崎へ。今回は化学修行。土佐藩は九反田に開成館をつくって殖産興業を至上の命題としていた頃合い。井上さんのミッションも、その流れに沿ったものであったことは容易に想像できる。

たぶん、最初は、本山の銅山の鉱石成分調査。金が含まれちょったらすごい、ということ。

海外との貿易などが始まった時期で、金は、国際通貨でもあって非常に重要視されたので。

でも、長崎で、これも恐らく後藤象二郎の指示によって上野彦馬の弟子となる。

 

上野彦馬は、長崎で写真館を開業した、日本の写真技術の始祖、とも言われる人物だ。そんなハイカラな人物に、後藤象二郎が接触しないわけが、ない。で、長崎の上野スタジオで腕を磨いた井上さん、後藤象二郎について大坂へ行き、そこで写真館を開業。写真機材は土佐藩が300両で買い上げたとかいう話もある。このへんの金の使い方が後藤象二郎だね。金銭感覚は、ない。岩崎弥太郎と大正的な、後藤象二郎。

まあ、そのお陰で井上は写真家となり、その後高知へ帰って農人町で写真業と西洋雑貨商を営んだ、とのこと。

なにより。

あの、桂浜の龍馬像の元となった写真。長崎の上野彦馬のスタジオで撮られたのは間違いなく、井上俊三さんちにガラス原板が残されちょったことに鑑みて、上野スタジオで、練習を兼ねて井上俊三が撮影した、というのが通説になっているのであります。

 

農人町の井上俊三。

さて。その井上俊三さんは明治40年に亡くなってます。この、井上俊三の名前が刻まれた柱が御寄進されたのは大正7年。もう、亡くなって10年以上経つ。謎だ。謎。

一度は、ここに、龍馬を撮影したかも知れない人物の名前を発見したと喜んだのだが、この年号によって謎になってしまった。その謎に気付いたのは、2010年6月18日のこと。もう、7年以上も謎のまま放ったらかしにしてしまいました。

考えられることとして、井上俊三さんの息子さんなり子孫の方が、同じ俊三を襲名し、名乗ったのか。もしくは同じ農人町に、同姓同名だが他人の、少し若い井上俊三さんがいたのか。

 

そんなこんなで調べてみました。井上俊三さんの墓所、五台山から逢坂峠の霊園に移ってまして、子孫の方々のお墓と一緒になっているではないか。そこで、その墓所の墓碑銘を調べてみると、明治40年に亡くなった井上俊三以外に、井上俊三さんは見当たらない。う~ん。やはり偶然の、同じ農人町の同姓同名なのか。

 

結局、今回もその謎は解けず、夏は過ぎ去っていくのであった。


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