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源希義が住んだのは〔4872〕2016/08/17

源希義が住んだのは

2016年8月17日(水)晴れ!

晴れちょりますが、空にはなんとなく薄雲。夜には夕立が降ったりするようになりました。そりゃあそうだ。これっぱあ暑かったら、大気も不安定になろうというもの。

「土佐史談」という冊子があります。土佐史談会の機関紙。土佐史に関する秀逸な論文が掲載される冊子でありますが、その最新号に、土佐史の大家、朝倉慶景先生による興味深い論文が載っちょりました。今、手元に無いので、記憶で書きますが、概略は、源希義さんが平治の乱の際に流され、住むことになったのは、介良ではなくて、国分の、国衙近辺であったのではないか、という話。

平治の乱で、源義朝が平清盛らに敗れた際、長男の頼朝は伊豆へ、その弟の希義くんは土佐へ流された、というのはご存知ですよね。
で、鎌倉期に成立した歴史書「吾妻鏡」に、源希義くんは介良に住んでいた、という話が出てくる。頼朝が伊豆で挙兵した際、希義が呼応するのを恐れた土佐の平家方、蓮池権守家綱や平田太郎俊遠らが介良の希義を討ちに来る、ということで、介良を出発した。土佐の源氏方、夜須七郎行宗と合流すべく東へ走るも、現在の鳶ヶ池中学校正門前で追ってきた蓮池家綱らに討たれた、という話。

ところが。
介良から夜須方面へ行こうとするのであれば、もっと南のルートが全然近い。これが、朝倉先生の指摘した謎。なんで、わざわざそんな北回りのルートを通らなければならなかったのか。
現在の地図とかGoogleマップではわかりにくいので、明治40年の地図を見てみよう。これを見ると、昔の道が想像しやすいので。
実は僕も、かなり昔から、そのことには気づいちょりました。このにっこりでも指摘したくらいです。

朝倉先生は、その謎を突き詰めた。さすがだ。僕とは違う。
希義くんが介良に住んだ、というのは、鎌倉時代に書かれた吾妻鏡にしか出てこない。それは正しいのか?
で、色々と考証した結果。各種文献などと整合性の取れる説が、「土佐史談」最新号に発表され、僕も「なるほど」と感心してしまったのでありました。

希義くんは、現在の南国市国分にあった国衙近辺に住まわされて、いた。
蓮池家綱は、土佐権守。もちろん本拠は、現在の土佐市蓮池なんですが、「権守」という、土佐守に次ぐナンバー2の地位にあった家綱さんは、普段は国衙に常駐し、勤務していたのではないか、と考えたわけだ。平田俊遠さんも、国衙にいたのかも知れない。

で、頼朝挙兵の報を受け、希義くんは、夜須の七郎行宗と合流すべく国衙近辺から出奔する。
明治40年の地図を見ればわかるが、国分から夜須へ向けて南東に走ると、鳶ヶ池中学校だ。そこで、国衙から追いかけてきた蓮池、平田連合軍に捕まり、討たれた。
それが、朝倉先生の説。なるほど。

この説でも、いくつかの謎が、残る。このにっこりでも何度かご紹介した、篠原の「柏水伝説」の立場はどうなるのか。これは単なる伝説なのか。
確かに、今年4月6日のにっこりで指摘したように、介良から柏水までは近過ぎる。鳶ヶ池中学校正門前に鞍掛の岩があるように、馬で移動していたのは間違いないので、介良から篠原まで、3〜4kmで、早くも水が欲しくなったのか。追手が迫る、緊迫した情勢の中で。それは、ちょっと、おかしい。
やはり、篠原の柏水は、別の伝説が紛れ込んだものかも、知れません。

夜須から、希義くんと合流すべく進軍してきた夜須七郎行宗は、現在の野市、野々宮の森で、希義が討たれた報を聞き、夜須へ取って返し、船で逃げた、とのこと。
写真は、その、野々宮の森があった、と言う場所に鎮座まします野々宮神社さん。地図を見ても、やはり、夜須七郎は、国衙方面を目指していたのか。介良を目指すのなら、もっと南のルートであったのではないか。朝倉説を裏付ける気もします。

野々宮神社は、一昨年の台風で、ご神木が倒れてしまいました。それまでは、野々宮の森、という風情を少しだけ残していた、野々宮神社。
今はこのとおり。すっかり、さっぱりしてしまいました。森の面影はなくなってしまいましたが、ここが、源平合戦の舞台の一つであったことには、変わりありません。


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