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黄梅と寺田寅彦と馬場孤蝶と槙村浩〔4695〕2016/02/22

黄梅と寺田寅彦と馬場孤蝶と槙村浩

2016年2月22日(月)晴れ

今朝の高知新聞に、高知城の西側、城西公園の黄梅が咲き始めた、という記事が載っちょりました。春の訪れを教えてくれる、黄梅。高知新聞さん、ここの黄梅、好きですね〜。毎年のように、この季節になると、ここの黄梅を紹介して「春が来た〜」とやりよります。
という小生も、ここの黄梅をご紹介するのは2004年3月6日、2006年2月21日に続いて3度目だ。まあ、印象的な花ではあります。

この植え込みの、川の反対側には、文学碑。
一番北側には有名な寺田寅彦さんの文学碑。
花物語
いくつ位の時であったかたしかには覚えぬが、自分が小さい時の事である。宅の前を流れている濁った堀川に沿うて半町位上ると川 は左に折れて舊城の裾の茂みに分け入る。その城に向うた此方の岸に廣い空地があった。維新前には藩の調練場であったのが、其の頃は県庁の所属になったまま で荒れ地になっていた。一面の砂地に雑草が所まだらに生ひ茂り處々昼顔が咲いていた。
これは、明治41年に「ホトトギス」に書いた随筆の中の一文。
ここの風景を寅彦さん独特の文章で限りなく優しく表現しちょります。

その南にが馬場孤蝶さんの歌碑。
鯨去る 行方を 灘の 霞かな

その南に、県教委が建てた竹本源治先生の不戦の誓いの碑。これにも印象的な文章が並ぶ。そしてその南。
この黄梅の丁度裏側。
槙村浩文学碑「間島パルチザンの歌」

槙村浩は、1911年に高知市で生まれ、母親に育てられながら、天才を発揮しました。小学生の頃から神童と言われ、優等生として成長します。大正10年(1921年)の高知新聞には「十歳の神童現わる」という記事も掲載されたとか。歴史に造詣が深く、「東洋最強国」日本を讃える、当時の世相の中で、国にとって非常に好ましい文章を書いたりしていた槙村浩、本名吉田豊道少年。
国威隆々と輝きて 萬世不滅 果もなし
などと書いたのは、その大正10年。

そして大正12年4月に、できたばかりの私立土佐中学校に入学。皆が注目する天才の入学でした。土佐中学校ができたのは大正9年4月なので、4回生ということになる訳だ。
そしてその頃から、文学に傾倒していく豊道少年。戦争へと突き進む社会状況に疑問を感じるようになり、また、興味のない教科にはまったく力を入れなくなって、学校の規格から外れていった豊道少年。本科2年の秋に腸チフスにかかって長期療養、休学となって、そのまま退学し、海南中学校へ転校していきました。本科2年の時の席次は、28名中28位。
その頃のことを、槙村浩は、文章にして残しております。

その文章の途中には
「百人の少年たちの海燕のような心臓をひんまげては急かし立てる校舎で 猫背になり 僕は室の中で真直ぐに立とうとするねずみもちのような時代を過ごしたのだ」
とあります。そして、こんな文章も。
「この期間の懐かしい友人たちを僕は永久に忘れない 低い鉄柵と石楠の並木の間で 何となく友欲しさに交わした愛情は ヒューマニズムの興奮に燃えて探し廻った正義は 決して忘れられるものぢゃないのだ!」
そして、こんな文章もありました。
「小さい同盟員のあんなに多くが 社会の嵐の中で 次々にコンミュニストに育ち 次々に拷問の鉄扉の中で 始めて庇をつきのけた顔と顔をまともに合わせえた こんな少年の学園は そんなに多くはありゃしないんだ!
そして高知が僕等の集中的舞台だったのだ!」

我々が知らない、黎明期の土佐中学校の風景が生き生きと浮かび上がる。そんな意味で、貴重な貴重な文章と言えましょう。

反戦詩人となった槙村浩は、突如現れた天才プロレタリア詩人として活躍し、2度の検挙、拷問をうけ。それがもとで、昭和13年、26歳という若さでこの世を去った詩人。
その代表作が、十五連の長編詩、「間島パルチザンの歌」でした。
ここの文学碑には、その詩の冒頭部分が刻まれております。美しい、春を連れて来てくれる黄梅の裏手に、ひっそりと佇む文学碑。


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