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竹林寺文殊堂と日吉神社の関係〔4686〕2016/02/13

竹林寺文殊堂と日吉神社の関係

2016年2月13日(土)雨

雨の土曜日。気温はかなり高め。冬とは思えない、そんな暖かさの雨の土曜日。

ニュースで、五台山、竹林寺さんのことをやりよりました。明治期に現在地に建て替えられた本堂。建て替えられる前の本堂については、正確にどこにあったのか、わからんなっちょったそうです。が、この度、柱の礎石の跡などが見つかって、かつての絵図の通りに本堂、文殊堂が建っちょったことが証明されたとか。あと、明治32年に台風で倒壊した三重塔の正確な位置も、今回の発掘でわかった、とのことでございます。

今日の午後に現地説明会がある、とのことですが、小生は午後は用事があるので、午前中に行ってみました。幸せの雨ラン。そう言えば、久し振りだ。雨の中を走るのは。

雨ラン。冬の雨ランは、走り始めは冷たいのを我慢せんといかんもんですが、今日は全然大丈夫。ちょっと走れば暑いくらい、つまり、雨の冷たさが心地良い雨ランとなりました。雨ランの楽しさは、経験した人でないとわからんと思います。

さて。
で、家から一気に五台山を駆け上がり、竹林寺さん。緑豊かな境内は、雨がよく似合う。朝から、多くの善男善女が参詣に訪れております。
牧野植物園の南園入口前、竹崎商店さんの前の石段を上がると、楼門。楼門を抜け、少し石段を上がれば、目の前に美しい緑の庭園が現れます。その真ん中を参道が延びて行き、突き当たりに石段。その石段を上がると、左手に大師堂、その奥に五重塔、右に曲がった突き当たりが本堂、文殊堂。これが現在の姿。

本堂の造営は、寛永22年というき、古い。1644年だ。二代藩主山内忠義公による造営。しかし、現在地に建てられた訳ではない。
現在地に移設されたのは明治45年。それまでは、楼門を抜けてまっすぐいった、石段の手前にあった、ということが、今回の発掘で証明された、という訳だ。
写真の左手に見える石段が、その、突き当たりの石段。その界隈に、斜面を背にして本堂が建ち、楼門の方、つまり東面しちょった、ということになる。

参道のところに、青い服を着た人が居ます。あそこに、本堂の前の二本の柱のうちの一つの礎石があるんですね。もう一本は、参道を挟んでこちら側。
ここにあった本堂を、そっくりそのまま、石段の上を右へいった斜面の下に移設した、ということになります。

ここに、本堂があった風景。想像してみよう。
この写真ではわかりにくいですが、参道から、向こう側に延びる道があって、その先に鳥居と建物が見えます。日吉神社さん。
以前、このにっこりでも書きましたが、藩政期になるちょっと前までは、竹林寺さん、天台宗のお寺さんでありました。
元々の五台山竹林寺さんの縁起を考えれば、そりゃあ天台宗だ。真言宗とは、ライバル関係と言うてもかまん、天台宗。最後の遣唐船に乗り、艱難辛苦の末に天台山を目指すこととなり、それは無理となって代わりに五台山へ行って帰ってきたのが円仁。延暦寺の発展に尽くした天台宗の高僧、円仁。
その思想を伝える天台宗のお寺であったのが、竹林寺さん。

しかし、弘法大師が修行したりして、いつしか、真言宗の名刹となった竹林寺さん。

話が長くなってしまいましたが、その境内の日吉神社は、ここが天台宗のお寺さんであったことの名残と言います。日吉ですきんね。日吉は日枝で、比叡山。

と、言うことはだ。
本堂である文殊堂の真ん前を、少し入った場所に、日吉神社があった、ということになる。並んであった、と言えるくらいの近さに。
この近さは、信仰のデリケートな部分を表しているのかも知れませんね。

本堂が現在地に移築されることになった経緯は、よく知りません。が、かつて天台宗であった名残の日吉神社が、すぐ横にあった、というのは、事実。そこで、東面していた本堂。

あれ。
藩政期、竹林寺は大きな大きなお寺さんで、堂宇の数もたくさんありました。幕末エリート僧大スキャンダル事件を起こした純信さんは、竹林寺の南坊の住職であった、と言う。その跡地は、牧野植物園南園の斜面にあったとされるのですが、こっから言えば真東ではないか。南ではない。何故、南坊だったのだろうか。
どうでもかまんような謎が深まっていく、雨の五台山。


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