早朝の椿山〔4636〕2015/12/25
2015年12月25日(金)曇り後晴れ
クリスマス。サンタさんもビックリの、暖かいクリスマスになりました。
小生は、今晩がJAとさ安芸酪農部の忘年会(安芸市)で、明日はお昼から中央酪農組合連合会の忘年会(葉牡丹)、明後日も夜が忘年会と続きまして、本年忘年会も締めとなる予定。まだ、あるかも知れませんが。
そんな訳で、今朝は松山へ。
一仕事済ませてから、朝5:30に会社を出発。早朝なので、高速は通らず、伊野から北上して旧吾北村。そこから旧池川町へ進んで、池川からは国道494号線。旧松山街道。最近お気に入りの、旧松山街道。
池川の町からしばらく土居川沿いにクネクネクネクネ北上すると、百川内という地区があります。そこを右折し、大野椿山川という渓流沿いの狭い道を上がってゆきました。
最初に、大野という集落。昭和49年まであったという小学校跡地もあり、まだ、居住する方々も居て、人の気配が結構する集落、大野。
そこを抜けて15分程。
標高600m近い、山の急斜面にへばりつくように、結構な軒数の家が並ぶ集落が突然現れる。そう。今年7月30日のにっこりでもご紹介した、椿山。椿山と書いて「つばやま」と読みます。土佐の山奥集落としては、結構知名度があるのではないでしょうか。
平家落人伝説に彩られ、また、県内で最後まで焼畑をやっておったことでも有名。
結構な軒数の家が、ホントに急斜面に、へばりついています。家と家の往来は、旧な石段や山道。これはなかなか高齢者には厳しい。
そもそも、何故、こんな場所に人々が住みついたのか。それは、平家の落人で、人目を忍ぶ必要があったから、とも言われます。それっぱあ、奥の奥。
地理院地図で見てみると、ここから奥へ行くと、四国山地の主脈。谷奥から登った尾根の先には、昨年5月に登った筒上山、手箱山。その向こうは石鎚山。
7月30日のにっこりにも書きましたが、ここは、壇ノ浦から逃げてきた安徳天皇が平知盛らに奉じられて逃げ込んだ土地という伝説の地。阿波から、四国山地の主脈を通って逃げてきちゅうということで、現代のトレランスペシャリストもびっくり。すごいコースだ。
で、一旦この山の斜面に逗留した安徳天皇一行。ここで落ち着いて暮らそうか。
そうしているうちに、旅の僧と名乗る人物が、川下で美しいお椀を拾うた、と、訪ねてきました。都の人が暮らしているのではないか、と。これは怪しい。源氏方の間者であるに違いない、ということで、安徳天皇に従ってきていた武士で、腕に覚えのある滝本軸之進さんが、その旅の僧と名乗る人物に刀を合わせたところ、やはり、かなりの腕前。なんとか討ち倒したのでありました。
さあ。この椿山も安全でなはい。と、言うことで、安徳天皇一行を横倉山方面へ向かわせたと言います。滝本軸之進さんは従者と共に椿山に残りました。
で、その旅の僧の霊を祀り、ここに住みついた、という伝説。
この写真の横にお堂があります。氏仏堂。その、僧侶を弔ったというお堂。
そして、この左手に祠。その前に「滝本軸之進霊社」の標柱。
今朝、7時頃の椿山。
おそらく、おばあちゃんが一人、暮らしているはず。そんな椿山を、探索してみました。斜面に密集するように家々が並び、賑やかであった時代を偲ばせてくれる。何か、ゴーストタウンを思わせるような静かな集落。そんな集落の中に、この標柱と祠はありました。
今はもう、常在人口が一人になってしまった、という椿山。このまま、消滅してしまうのか。今朝は村の中の風景をたくさん撮影してきました。
ただ。
道路脇には、何台かの自動車。そして、少し生活感のある家も。
常在人口は一人かも知れませんが、しょっちゅう、何人かの村人が帰ってきている風景が見て取れます。
ここの生活を支えた焼畑はもう、廃れました。なかなかここで暮らす経済的メリットは見当たらない。が、ここで暮らすことが使命であるかのように、戻ってくる村人の皆さん。
願わくば、この集落が維持され、美しい風景が残されていかんことを。