室戸と布師田〔4422〕2015/05/25
2015年5月25日(月)良いお天気
良いお天気の月曜日。今朝は、仕事があって朝から室戸にやって来ちょります。高知県東部の室戸市。
小生の最近のマイ地学ブームと、ジオパークの室戸となれば、当然地学ネタか、と思いきや。今朝は、ちくと違う話題にしてみましょう。羽根の鑑雄神社さんの話。
こないだ、このにっこりを昔から読みゆうおんちゃんと飲みよったら、「最近地学ネタばっかりで面白うない〜」などというご意見を頂戴したのであります。さもあらん。薄々、感づいてはおりましたが。ただ、同席しちょった別のおんちゃんからは「地学ネタ、面白いよ〜」との貴重にして希少なご意見も頂戴したので、これからも、やっぱしやります、地学ネタ。
それはともかく今朝は鑑雄神社。かがみお神社。
ここは、高知から行ったら室戸市の入り口に当たる、羽根。羽根の岬をまわって暫く南下し、信号を羽根小学校の方へと折れ、旧道を少し走った左手。旧道沿いに、静かに鎮座まします鑑雄神社さん。拝殿は新しく、サッシが嵌まっちょります。
この神社は、明治8年に創建されたと言います。今日はそのお話。
室戸と布師田。
藩政期初期に、ここ室戸と、現在の高知市布師田は、偉大な人物でつながっちょります。それも、二人。
一人目は、このにっこりでも幾度かご紹介しましたね、一木権兵衛さん。布師田出身の元一領具足で、地元布師田での治水工事が野中兼山さんの目に止まり、兼山さんが藩内各所で行った大土木工事の工事責任者に抜擢されて活躍したのが、一木権兵衛さん。そして、普請奉行一木権兵衛の最後の大工事が、室津港の普請でございました。その難工事の人柱となって自刃する、という最期を迎えた一木権兵衛さん。
そしてもう一人。同じく布師田出身の岡村十兵衛さん。
十兵衛さんは、天和元年(1681年)、安芸郡羽根村に、分一役という浦役人として赴任しました。これは、一木権兵衛自刃の2年後のこと。
赴任してみますと、台風や旱魃で、住民の生活は大変なことになっちゅう。そこで、藩に願い出て、藩の御蔵米を払い下げてもらい、困窮者を救うたのであります。しかし、そのお米の支払いに苦しみ、羽根の東の山、黒見の御留山の払い下げを受けて松の木を伐採、支払いに充てました。
しかし。
3年後の貞享元年(1684年)に再び大飢饉が浦を襲い、餓死する住民がでてきました。
十兵衛さん、またまた藩に願い出ますが、今度は追い返されてしまう。そこで十兵衛さん。藩の許可を得ずに尾僧の御蔵米を開けて、お米を浦人に与えたのでありました。
で、責任を取って十兵衛さん、自決。権兵衛さん自決の4年後。
その後、羽根の浦人は、この恩人の死を悼んで墓碑を建てました。そして、維新の後の明治8年、浦人によって岡村十兵衛さんを神として祀り、当時の高知県知事岩崎長武が、十兵衛さんを英雄の鑑である、として雄鑑神社と命名したそうです。
明治8年に建てられた碑が、拝殿の右手に見えております。
鳥居の右手には、石灰の功労者、徳右衛門さんの碑も立ちます。羽根村、柳屋の慶蔵関連ですな。
ともあれ、この神社は、布師田生まれの羽根の恩人、岡村十兵衛さんをお祀りしちゅう神社。室戸と布師田の縁を伝えます。