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潮江天満宮の標高、潮江庄〔4340〕2015/03/04

潮江天満宮の標高、潮江庄

2015年3月4日(水)晴れ!

昨日は降りましたね〜。いや、時化みたいでした。その雨も夜のうちには上がり、夜明け前には空に星が見えるようになりました。
ここは、今朝、午前4時過ぎの潮江天満宮さん。久々に、お参りにやって来ました。高知で一番初詣客の多いお馴染みのお宮さん、潮江天満宮さん。

ご承知の通り、菅原道真公の嫡男、菅原高視さんが、父道真公の遺品を祀ったことに始まるとされる潮江天満宮さん。それまでは、龍神様をお祀りする祠であったとも言います。
高視さんが住んでいたのは、高見山の東麓。当時、現在の高知の市街地は海。広大な古浦戸湾が広がり、山沿いに集落や田畑がへばりついておったと思われます。
筆山北麓の、この地。当時はどんな感じであったのでしょうか。

そこで、一昨日からマイブームになっちゅう地理院地図で、現在の標高を確かめてみました。
写真の、小生が立っちゅう場所。ここは、手水舍から楼門を抜けて梅林に突き当たった所。標高2.7m。その向こう、石段を上がって進んだ拝殿前。標高3.9m。なるほど。

菅原高視さんが最初に父の遺品をお祀りしたのは、今の天満宮の東、現在真如寺さんがある場所であったと言います。そこが標高2.4m程度。

現在、潮江新町とか新田町とかの標高は0.7mくらいが多く、桟橋通3丁目界隈になると0mからマイナスになる地点も。百石町でも1mくらい。竹島町は0.4m程度。
そう。この界隈は全部海でした。竹島という島がぽっかりと浮かぶ、静かな内海。高見山東麓に住む高視さんは、その海を、船で行き来しながら土佐での生活をやっておったと思われます。

鏡川の北側で、高知城の東側は、高い場所で標高2m。ほとんどは、それより低い地盤となっちょります。ここは、菅原道真公の時代から後、どんどんと土砂が堆積、治水工事や開発も進んで土地が高くなったと言われます。中世以降になって、人が住めるような土地になって来たと言われます。
ちなみに宝永町以東の、現在も0m地帯である下知や知寄町界隈は、江戸時代になるまで海やったことは言うまでもありません。

さて。
そんな訳で、この場所。ここは、現在の潮江はもとより、高知市中心部よりも少し高い土地。なので、平安時代、道真公の時代にも、古浦戸湾沿いの、低いながらも美しい土地であったのでありましょう。ここに、嫡男高視さんによって、道真公の遺品が祀られたのでありますね。

ちなみに、潮江の土地に、中世、潮江庄という荘園があったことが判っちょります。室戸の最御崎寺領。土佐国蠧簡集捨遺によりますれば、徳治三年(1308年)の文書に出てくるそうです。この荘園は、どの界隈にあったのか。その頃になると、潮江のうちの山に近い方は陸地化し、潮田になっちょったのでしょうか。

さらにちなみに「兼仲卿記」という文書には、潮江庄が、寛治年間(1087年〜94年)に下鴨神社領として立荘された、とあるそうです。で、康和二年(1100年)の南海地震津波で海没。荘園として復活するのは1283年とされますが、この潮江庄と最御崎寺領の潮江庄、どうなんでしょうかね。
11世紀に、荘園が成立するほど、潮江に田畑があったのかどうなのかは、わかりません。塩田はあったかも知れませんが。

ここから東へ行くと塩屋崎。筆山の北東端。戦国期には、その界隈に広大な塩田があったことが判っちょります。で、製塩が盛んに行われ、藩政期になっても製塩業が営まれ、塩屋崎と呼ばれた、ということ。塩屋崎のところの標高は1.3m。今も結構低い。潮江中学校の場所は、かつて、高知県女子師範学校でした。大正15年に、女子師範が建設される際、筆山の土を削り取って造成に使うたそうです。低い湿地帯やったでしょうきんね。
筆山の北東側の斜面が抉り取られちゅうのは、その時の採土の痕跡なのでありますね。


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