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野中兼山と深渕の半四〔4188〕2014/10/03

野中兼山と深渕の半四

2014年10月3日(金)薄曇り

ここは野市。香南市野市の、深渕。昔は、野市村の西で深渕村として独立しちょりました。深渕郷の成立はこじゃんと古く、古い文献にもたくさん登場します。深渕神社さんは延喜式内社ですきんね。
写真は現在の深渕神社さん。しかし、この場所にやって来たのは明治25年。深渕水夜禮花命が御祭神。ここへ遷座する前は、この北西の十善寺にあったようです。
しかし、その十善寺も本来の鎮座地ではありません。最初は、元原部島にあったと言います。今の物部川の中。しかし、江戸時代前期の17世紀末頃、物部川の氾濫で流され、十善寺に遷座したにかありません。その十善寺も洪水に遭い、この場所へ。

最初の遷座当時の話。
遷座したのは寛文年間。大洪水が、深渕を洗い流してしもうたそうです。野中兼山さんが亡くなったのが寛文三年十二月(1664年1月)で、その数年後の深渕大洪水。兼山最後の大工事が、深渕の西側の下井川開削であったとされます。野中兼山と深渕。なかなか色々あったにかありません。
元々、深渕は、古くからの村。物部川に堰をつくり、自分たちで水路を通して農業を行いよった土地。ところが、野中兼山さんがやって来て、この東側の不毛の台地の開発に着手、物部川上流に新しい巨大な堰をつくり、水路を通して広大な農地を開発したのはご承知の通り。

しかし、最初から自前で水路を通して農地を開発しちょった深渕にとってみれば、自分たちの取水口の上流で水を取られることになり、面白くない。その上に、物部川流路をこの位置に固定化することを兼山さんがやったお陰で、洪水に見舞われる危険性が高まる。エイことありません。
で、兼山さんも、深渕に用水を通す工事を敢行して、不満を解消しょうとしたとも云われます。

さて。
野中兼山さんが野市の台地を開発するに際し、旧長宗我部家臣を郷士に取り立て、野市に移住させて開発に従事させた、というのは有名ですき、ご存知ですよね。いわゆる野市百人衆。これが、土佐藩郷士の始まりとされます。
その一人に、横山さんという人物がおりました。郷士、横山氏。横山さんは深渕に住み、開発に従事して、それなりの財を築いたようです。で、その使用人に、横山さんよりずっと有名になった人物がおります。以前、一度だけこのにっこりでもご紹介しました。半四。はんし。深渕の半四は、「どくれの半四」として伝説になり、現代まで愛され続けてきた人物。

実在しちょったかどうかは、証拠はありません。しかし、お墓は、残っちゅうと言います。少し謎に包まれたお墓ですが、それによりますと、亡くなったのは野中兼山さんが亡くなる二年程前。まだ、若かったと言います。そのお墓がホンモノなら、野市で一番古いお墓かも知れませんね。

どくれの半四。
使用人というか、客分というか、なかなか微妙な立ち位置で主人の横山さんに仕えますが、まあ、どくれ。指示をまともに聞かず、こじゃんとひねくれて解釈したり、屁理屈をこねて主人をやりこめたり、と、やりたい放題。体力抜群の大男でもあったようで、その、権威をへこます知恵と実行力とに、庶民が喝采を送ったことは、想像できます。
たぶん、実在の人物。愛すべき人物やったがでしょう。その人物像に尾ひれがつき、庶民の希望、思いなどが付加されていって、面白い、まことにややこしい、しかし痛快な「どくれの半四」が形づくられていったのでありましょうね。

主人の横山さんも、何かと言えば半四を呼んで用事を言いつける。やりこめられてもやりこめられても、半四を頼りにしちょったことが伺えます。
土佐には、「とっぽうこき」とか「てんくろう」とか、どっさりおりますが、殆どが、幕末から明治期に活躍した人物。そんな意味で、深渕の半四は、そんな土佐らしい人物の元祖とも云えるでしょう。半四をモデルに、各所で、そんな人物が愛され、語られるようになっていったがかも知れません。

半四は、野中兼山さんとも接点があったようです。
半四の伝説は、深渕の住民の、野中兼山に対する不満の思いが形になったもの、という解釈も成り立ちます。この古い土地には、色んな人々の思いが、今に至るまで忘れられずに伝わっちゅうのであります。


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