田辺島の遍路石〔3749〕2013/07/21
2013年7月21日(日)暑い日曜日
良いお天気の日曜日。今日は、午後から図書館で仕事をするつもりやったので、朝のうち、走りに出ちょりました。炎天下RUN。最終目的地は「ながおか温泉」で、国分川沿いの堤防上を走りましたので、日陰なし。暑いこと暑いこと。ながおか温泉に到着すると、まず、水風呂にドボン。しばらく水風呂から出とうないくらいの心地良さでした。
さて。ここは途中の田辺島。たべしまと読みます。国分川沿いに田辺島という小山があり、その周囲に形勢されちゅう集落。
田辺島のてっぺんには隼人神社。もちろん、戦国期、長宗我部氏配下で大活躍した福留隼人さんをお祀りしちゅう神社。と、言うか、隼人さんとそのお父さん、親政さんをお祀りしちゅう田辺島神社ですが、皆さん、隼人神社、はいとさん、と呼びます。今日はお祭りらしゅうてですね、朝っぱらからたくさんの氏子さんが集まって、社殿や境内のお掃除をしよりました。
田辺島は、その名の通り、古代には、浦戸湾に浮かぶ島のひとつやった訳です。ですきに、周囲はかなり低い土地。南海地震の津波が押し寄せてきた場合の避難地に指定されちょります。田辺島界隈には、「いそげ!隼人神社だ!」と書かれた案内板がたくさん。これは、東日本大震災よりもずっと前からあった案内板。
田辺島の山には、東日本大震災後、参道の石段以外からも登れるように避難路がしつらえられちょりました。
その田辺島。集落の中の道路脇にこんな石が。
こっから五台山まで30丁、右手が遍路道ぜよ、と刻まれちょります。文政3年と言いますき、古い。1820年。30番札所、一宮の善楽寺さんから31番札所、五台山の竹林寺さんへ向かう遍路路ですな。
ここで考えてみました。この遍路石が置かれた時代は、一宮の善楽寺さんから、ここを通って五台山へ行きよったのか。地図で見たら、ちょっとだけ、遠回りみたいにも見えますが。まあ、順番ですき、29の次は30で、その次が31。
ところが、明治維新の後の廃仏毀釈で、善楽寺さんは、一旦廃されてしまいました。で、市内の洞ヶ島に明治8年に再興された安楽寺さんが代わって30番札所になりました。
すると、国分寺から安楽寺へ行って、それから五台山の国分寺。う〜ん、行ったり来たり。確かに、それですと、29番から30番、つまり国分寺から安楽寺へ向かうがに、この道を通ることも考えられる。しかし、次の目的地は五台山ではなくて洞ヶ島になります。
しかし。その後、善楽寺さんが再興され、安楽寺さんと、札所論争を繰り広げたがはご承知の通り。結局、善楽寺さんが30番で、安楽寺さんはその奥の院、ということで決着しましたよね。小生の菩提寺は安楽寺さんですき、関係無しではありません。まあ、ほとんど関係ないですが。
でですね、この道も、また旧の遍路路に復したでしょうか。いや、お遍路さんが田辺島を通って五台山の竹林寺さんへ行く、てな話は聞きませんねえ。
国分川に橋が架かり、遍路路も、随分と変わったのでありましょうか。
ともあれこの遍路石。昔から田辺島が交通結節点であり、栄えた集落であったことを、今に伝えてくれます。