よさこい節、時系列での整理〔3419〕2012/08/25
2012年8月25日(土)晴れ
今日も暑うございます。時間があんましなかったので、今日はお手軽五台山ラン。暑いですけんど、五台山は木陰も多いしキレイなし、走るのにはなかなか良いところ。てっぺんに鎮座まします名刹、竹林寺さんは、今日もたくさんの観光客さんやお遍路さん。賑わいよります。この本堂には、ご本尊の文殊菩薩さまがいらっしゃいます。
そうそう、土電の電車に、文珠通りという停留所があります。あれは、あそこからまっすぐ南へ行くと五台山で、そのまま遍路道を上っていけば竹林寺さんの文殊菩薩を拝めるき「文殊通り」。
さて、手前の常夜燈は、宝永4年6月のご寄進と刻まれちょります。1707年。そう。あの、宝永大地震の4ヶ月前。できたばっかしのこの燈籠は、宝永の地震でも倒壊することはなかったようです。この常夜燈が真新しかったときに、3連動の大地震が襲うてきた訳です。次の3連動はいつになるのでしょう。
この名刹竹林寺さんには、たくさんの脇坊がありました。現在の、牧野植物園の南園のところにあったがが南坊。幕末の時代、そこのエリート住職に純信さんがおりました。弟子が慶全。そして、麓の長江というところの鋳掛屋の娘、お馬さんが、掃除洗濯とかのバイトにきよったことから始まったのが、よさこい節に歌われた純信お馬の大スキャンダル事件。何度か、このにっこりにも書いて来ました。今日は、時系列に沿うて、説明しましょう。長いですよ。お暇なときにどうぞ。
まず、純信が、弟子の慶全を使いながら勤務しよったのが、竹林寺の南坊。こことされちょります。最初の舞台。純信は35歳の分別盛り。当時としてはかなりのエリートと目されちょりました。
そして五台山麓の鋳掛屋、新平に、お馬さんというそれはそれは美人の誉れの高い娘さんが居りました。14歳くらい。お馬さんが使いよったとされる井戸が残されちょりますが、今は民家の中。前の路地から勝手に撮影したががこれ。そばまでは行けません。民家の中ですき。
そのお馬さんが、洗濯やらなにやらのバイトに、南坊に通い始め、物語は始まったのであります。最初、その娘さんに手を出したのは、弟子の慶全くん。まだ若かったでしょう。入れこんでしまいまして、なんとか気を引こうと、はりまや橋の小間物屋に、プレゼントの簪を買いにでかけたのでありました。
無事、簪を買うてモンて来た訳ですが、小間物屋で働きよったおんちゃんが、あれはおかしい、と言い立てて、噂があっという間に広がりました。
これは、当時の戒律から言うて許されんこと、ということで、純信さん、慶全くんを破門。そして普通ならこれで一件落着となるのであります。しかし、なりませんでした。今度は純信さんが、お馬さんの魅力にぞっこん。いや、慶全くんが手を出しゆう時から、実は狙いよったがかも知れません。で、慶全くんが居なくなったのを良いことに、手を出してしまい、そんな仲になってしもうたのでありました。
お馬さんは、五台山に東から上っていく路を、毎日通りました。事件後、お馬路と呼ばれるようになった路。牧野植物園の南園に、その路は、両脇の石垣と共に残っちょります。その路を下っていきまして、路からちょっと逸れた目立たん場所に、こじゃんと見晴らしの良い岩があります。そこで、純信お馬は、逢い引きをしよったとされます。その岩は、お馬岩と呼ばれるようになり、今も、ちょっとわかりにくい場所に鎮座ましましちょります。
さてさて面白うないがは慶全くん。どうやら二人の仲に気付き、怒り心頭。そして、スキャンダルとして写真週刊誌に持ち込んだのでありました。ではなくて、とにかく言いふらした訳ですね。調査委員会ができたかどうかは知りませんが、その不穏な動きを察知した純信お馬は、駆け落ちを決意。笹越えの険しいルートを通って讃岐の金比羅さんへ。しかし、そこで追っ手に捕まってしまい、土佐へ強制送還。そして、城下の三ヶ所の番所前に高札とともに晒された後、純信さんは国外へ、お馬さんは、土佐の安芸から東への追放となったのでありました。
その際、取り調べで、役人が「五台山の僧は、お前の母親と同い年の老僧である、お馬は妙齢の身を持ってこれに恋慕するとは何ごとぢゃ!」と問い詰めたところ、お馬さんはこのように答えました。「わたしはただ坊さんが恋しいだけで、年を数えたことはございません。」。
さて、まだまだ物語は続きます。どうしてもお馬さんのことが忘れられん純信さん、追放になっちょった川之江から、行商人に変装して山を越え、安田の坂本屋という旅館で働きよったお馬さんのところへやって来ました。もう一回駆け落ちしょう、と持ちかけに。けんど、もう、若いお馬さんは熱も冷め、いい加減にして欲しい、てな感じになっちょったにかありません。
結局捕縛され、また純信は国外へ、お馬さんは須崎から西へと追放になりました。その後の純信さんとお馬さんについては、2006年1月19日のにっこりに詳しゅう書きました。まあまあ、ちゃんとした人生を送っちょります。
しかし歌の方は幕末、維新の志士によって全国的に流行し、「南国土佐を後にして」でまたまた全国に流布し、よさこい祭で全国に広がりまくることになった訳です。が、この物語を知るヒトは少ないかも知れません。