野市の河岸段丘、琴平神社玉垣の文面〔2897〕2011/03/22
2011年3月22日(火)あたたかい3月
高知は随分と暖かくなってきました。間もなく桜も咲くことでしょう。浮かれる気分にはなれませんが、ニッポン全体の元気が無いなって経済がまわらんなるがもいけません。ここが踏ん張りどころ。
さて、写真は、今朝、夜明け前の野市上岡。八幡様の東の道路から、南東方向にカメラを向けてみました。
この左手の、古い家の建つ場所と、畠の広がる土地とは、標高にして3m~4mくらい差があります。下の、畠の部分は、物部川河口部に扇型に広がっちょりまして、そこには古い家は建っちょりません。
左手、河岸段丘上に、古くからの集落が拓けております。
これは、物部川の洪水対策とばっかり思いよりましたが、津波対策でもあることが、今回、よくわかりました。安政地震の際には、この集落は津波の被害に遭うてないと思われます。
こないだ、南国市琴平山の琴平神社にご寄進されちゅう玉垣に、安政南海地震について刻まれちゅうがをご紹介しました。その本文は、風化もあって読みづろうなっておりますが、渡辺瑠海さんが判読できる部分について書いて送って下さいました。それを、例によって土佐弁に読み下してみます。
嘉永の初めの頃、妙に異常気象が続きよった。そして嘉永7年11月4日午前10時ばあに、地震が発生したがよ。メッソなことはない地震やったけんど、海の干満が狂うて、漁の妨げになったりした。が、漁師さんらあも、そんなには騒ぎやあせんかった。翌日の5日は快晴。夕方4時前になって大地震が発生した。地は裂け、山は壊れ、家の中に居ったモンは家屋の下敷きになり、外に居ったモンは石に打たれ、火災も発生して、人家や蔵、蔵に入っちょった財宝や名器はいっぺんに灰になった。また、親を尋ねて叫ぶ声、子を探して叫ぶ声が山野に満ち、阿鼻叫喚の様相。そこへ、日暮れの6時半ばあになてって、海から渦巻きがやってきたがよ。その勢いはものすごく、いかなる柱や建物の基礎も全部流され、「平砂」となり、田んぼは海に沈んでナマコの住み処となってしもうた。他所へ移住をやむなくされたモンも多かったと。この年は、宝永南海地震の大津波から148年目。他の地域にも、広範囲に、地震がいっぱい発生したらしい。その年12月に安政とめでたく改元したが、その後3~4年経過し、あの大災害を振り返って玉垣を寄進し、地震津波が起こった際の覚悟のために、海難の記録を残す。この大災害に当たって、この金比羅さんのご加護により、被害を免れた事を報じ、後世の一助としたいと皆が願うものぢゃきのう。
75歳の老漁師 橘重得 記
以上ですが、かなり、想像で読み下しちゅう部分があるので、正確ではありません。が、雰囲気は伝わると思います。津波の被害の前に、建物の被害もすごかったことが、これで判ります。津波が襲来したときに、地震で身動き取れんなっちゅう状態であることも逃げれん要因になる訳です。
この玉垣は、どちらかと言えば、助かったことを神様に感謝する意味合いの強い玉垣。地震津波から3年経過し、やっと、感謝の気持ちを冷静に伝えることができるようになったがでしょうか。