高知城下、郭中と下町の境目の証拠〔868〕2005/08/31
2005年8月31日(水)曇り
今日で夏休みもおしまい。子供の頃から、何となく寂しくなる8月31日ですね。明日からJr.達も元気に学校へ通うことになります。皆に会うのが楽しみみたいですね。
さて、ここは、高知大丸の北側、四国銀行中央支店から斜めに入っていく道路。夜はネオン輝く繁華街です。この道、その向こうの所で盛り上がっちゅうがが判りますでしょうか。三叉路の向こうで70~80cmくらい上って、そして下ります。
ひまわり太郎、コンマイ時分からこの盛り上がりには気付いちょりまして、何でこんなところが盛り上がっちゅうがやろう、と、ちょびっとだけ思いよりました。
最近やっと、あるおんちゃんから教えてもろうたんで、披露しますね。これ、藩政期、上士(身分の高い武士)の住むエリアやった郭中(かちゅう)と、商人や下級武士などが住む下町(しもまち)との境目にあった、堤の名残りながやそうです。大水が出ても郭中に水が入って来ないようにつくられた堤防。
盛り上がりのこちら側が下町の「細工町」。その名の通り、職人さんが多く住んだ町で、盛り上がりの向こう側は武士の住む帯屋町。ここには堀もありまして、高知城を中心とした郭中とそれ以外が画然と区別されちょった訳ですな。
今、藩政期の郭中とその外側の境目を示す証拠はここだけ。この南のアーケードも、この北側の柳町や追手筋も、今は平坦になっちょりますので、境目がわかりません。
子供の頃、ひまわり太郎の通う追手前小学校と、その東の新堀小学校の校区の境目がよう判らんかったがですが(普通考えたら電車通りの東と西で分けそうなもんですが、そうぢゃありませんでした。不思議でした。)、ここやったがですね。子供の頃の謎が解けていきます。