蛍池は、どの池だ?〔5287〕2017/10/06
2017年10月6日(金)曇ってまんがな
そんな訳で、今朝は大阪。昨日の夜、やって来ました。今日の午前中に金沢まで行かんといかんので、昨夜は大阪泊。今、金沢へ向かうサンダーバードの車内で、書いてます。
泊まっていたのは、蛍池の近く。阪急宝塚線、蛍池駅。住宅街が広がり、こっから北へ行くと箕面の高級住宅地。北西へ行けば宝塚方面。阪急グループの礎を築いた地域でございますな。
ご存知小林一三さんが、明治40年、箕面有馬電気軌道という会社の専務になったことから始まる、歴史だ。
実質経営者であった小林一三。明治43年に、宝塚線と箕面線を開業。そして、箕面や宝塚に、当時としては画期的で魅力的な施設をどんどんと作る。すごい発想力で。
ウィキにも書いてます。「乗客は電車が創造する」。小林の言葉だ。それまでの発想では、人々が赴く場所へ、電車を通す、であったので、鶏と卵が逆転した訳だ。その言葉通り、彼が電車を通した沿線が街として発展し、乗客が創造されていった。このモデルを考え、実行に移していったのが小林一三という人物。
で、今朝の写真。
阪急蛍池駅の西側にある、大きな商業施設の裏側。ここに、こんな碑がたってます。「麻田藩旧跡」と刻まれた、自然石の大きな碑。ここは、藩政期、一万石の大名としてこの一帯を支配した麻田藩の本陣があった場所なんだそう。そう。この界隈の地名は「麻田」だったんだ。
そこに、電車が走り、駅ができる。
普通なら「麻田駅」と名付けるところだが、小林一三は、それでは面白くない、と考えたのでありました。ここが常人と違うね。
駅の近所に、蛍で有名な蛍池という池があった。そこで小林は考えた。そうだ。蛍池駅という駅名にしよう。その名称の方が素敵で、印象的。たぶん、当時は池が点在するだけの、静かな土地だったでしょう。そこに人々が暮らし始め、電車の乗客になる。麻田よりは蛍池の方が、新しく住む土地の名称としては魅力的ですきんね。
こんなことを考えたのかどうか知らんけど、とにかくそのネーミングは成功し、現在は豊中市蛍池というのが正式な地名になってしまっています。麻田って、どこだ?
麻田藩は一万石。小藩で、外様ではあるものの、大坂冬の陣の後、1615年から幕末まで青木氏を当主として存続し、明治維新後は華族に。
そんな藩があり、本陣があったのが、ここ。
出張とか行きますと、その地方のこと、知りたくなります。なりますよね。で、調べてみると、意外な歴史がそこに展開されていたりするので、楽しい。
今朝知ったのは、麻田藩の歴史。
小林一三の先見の明と行動力。
蛍池という地名の由来。
朝っぱらから勉強になります。
ところで、気になるのは「蛍池」。どの池だ?
「池としての蛍池は、駅から北東に400m離れている」とウィキにあるけど、よくわからない。地理院地図で見ても、Googleマップで見ても、よくわからない。地理院地図の土地条件図には、昔、池であった場所が表示されているはずだが、北東400m界隈には該当するような池は見当たらんではないか。これは、今度、調べてみんといかん。
蛍池は、どの池だ?