尊良親王と永観堂〔4610〕2015/11/29
2015年11月29日(日)晴れどす
そんな訳で今日は京都。由あって、朝2時半に高知を出発してやって来ました。車です。もちろん日帰り。
11月末の京都。例年ですと、終わりかけの紅葉が美しい季節。今年は、秋が暖かかったせいでしょうか、例年のようなクッキリはっきりした紅葉ではありません。いつもの深紅は、今年はなんとなく赤茶色。黄色も、少し茶色っぽい。とは言え京都。いつもながらの賑わいを見せちょりました。
そんな今年の京都で、さすが、京都の紅葉だ!という風情を見せていたのが永観堂。南禅寺の北、山裾のお寺さん。いや、実に素晴らしい。
永観堂というのは、浄土宗西山禅林寺派総本山 永観堂禅林寺、というのが正式名称にかありません。浄土宗か。広い境内には美しい樹々。美しい伽藍。たくさんの仏像。京都らしいたたずまいの、素晴らしいお寺さんでした。
その永観堂から西へと歩いて下っておりましたら、道路脇に、少し違う空気のするスペースが。それがこの写真。奥の説明板には「宮内庁」の文字。何?宮内庁だと?
説明板を詳しく見てみますれば
後醍醐天皇皇子 尊良親王墓
一、みだりに域内に立ち入らぬこと
一、魚鳥等を取らぬこと
一、竹、木等を切らぬこと
宮内庁
尊良親王だと?ここに?
これはちょっと驚きました。尊良親王。たかよししんのう、ともたかながしんのう、とも読まれる、後醍醐天皇の皇子だ。何故、そんなに驚いたかと申しますれば、高知に来たことがある皇子だから。
後醍醐天皇が、最初に鎌倉幕府に対して兵を挙げたのは、1332年のこと。いわゆる元弘の乱。この時、後醍醐天皇を支えた息子は、尊良親王、世良親王、護良親王、宗良親王でした。世良親王は早逝したので、残りの三人が頑張った。
しかし、元弘の乱は失敗に終わり、後醍醐天皇が隠岐へ、宗良親王が讃岐へ、そして尊良親王が土佐へと流されたのでありました。
土佐へやって来て上陸したのは、現在の黒潮町、王撫浜。そこには、土佐くろしお鉄道の「海の王迎え」という駅がありまして、以前、にっこりでもご紹介しました。
で、近くの豪族有井氏に守られて仮御所で過ごし、それから九州へ。後醍醐天皇が隠岐を脱出して鎌倉幕府を倒すと、京へと上り、天皇を援けます。
しかし。
足利尊氏の反逆で、新田義貞らと敗走し、北陸の越前へ。そこで体制を立て直そうとしますが、尊氏の勢いにやられてしまい、金ヶ崎城で自害。数奇な運命の皇子は、北陸で生涯を終えたのであります。
なので、てっきり、金ヶ崎にお墓があるものとばっかり思いよりました。それが、京都の、紅葉の美しい永観堂の参道脇にあったので、ビックリした、という訳です。
調べてみますれば、ネットでは、尊良親王の首は、禅林寺住職、夢窓疎石の元に送られ、そこで葬礼が行われた、と書いちゃあります。
夢窓疎石は、当時、南禅寺におります。南禅寺は、禅林寺の離宮として開かれ、南禅寺となったものなので、夢窓疎石は、その南禅寺の住職であったというのが正確かも知れません。
それはともかく、夢窓疎石は、土佐へやって来て、五台山に吸江庵、現在の吸江禅寺を結んだのでも有名。その時期は、足利尊氏らの招請を断りよった、建武の新政の前の時代のこと。
土佐に来たことのある夢窓疎石が、土佐に来たことのある尊良親王の葬礼を行った、というのは、何か、不思議な感じがしました。
尊良親王の首が埋葬されている場所。少し、空気が違いました。