板垣退助先生と、西郷隆盛肖像画〔4512〕2015/08/23
2015年8月23日(日)あづい!
よう晴れた日曜日。気温も上がって34℃は超えちょりますな。良い、夏の一日になりました。素晴らしい暑さだ。
今日は、朝のうちに走ってきました。まだ気温が上がらんうちに、と、6時半に家を出たのでありますが、それでも暑い暑い。心地よい炎天下ランを堪能して参りました。20km。
家を出まして真っ直ぐ北上。高知インターの手前で、右手の山へ。その山には、板垣退助先生の墓所があります。
高知自動車道を走り、高知インターで降りて、高知の街中の方へとカーブを下っていきよりましたら、左手に、板垣退助先生墓所の看板が見えます。一瞬。
インターチェンジの取付け道路なので、もちろん車を停める訳にも参らず、看板を見てもお参りに寄ることはできない。
そんなこともあって、実は、小生、まだお参りしたことなかったのであります。板垣先生、ごめんなさい。
墓所は、山中の、こんな場所にありました。夏なので、もちろん蚊も多い森の中。
土佐藩の馬廻格であった乾家。お墓も、その家格に相応しい立派なものが多い。そんな乾家墓所。
乾家の先祖は、甲斐、武田信玄幕下の板垣信方。NHKの大河ドラマ「風林火山」ではサニー千葉真一がやっておりましたな。サニー千葉真一の子孫、板垣退助は、同じく大河の「龍馬伝」には出てきません。龍馬と退助は、直接の面識はなかったと言われます。もちろん、お互いに人物は知ってはおったが、直接の面識はない。土佐の上士、下士は、そんなもんだ。
戊辰戦争の際、迅衝隊総督、先鋒総督府参謀として活躍し、甲府を攻める折に、自分がサニー千葉真一ぢゃなかった板垣信方の子孫であることをカミングアウトして、乾姓から板垣姓に戻したのは有名な話。
これがなければ、明治になって自由民権運動が活発になっても、「板垣死すとも自由はしせず」ではなくて「乾死すとも」であったことになるのかな。
さておき。
ここから山を下り、谷間の道をどんどんどんどんと北へ向かって駆け上ってみました。今朝はiPhone、持っちょりません。いきあたりばったり。かなり駆け上がったところで、道はなくなり行き止まり。狭い山道も、蜘蛛の巣だらけで進めない。仕方ないので引き返し、別の道路を駆け上ると、正蓮寺の方へとつながる道路に出ました。その道を小坂峠まで炎天下ラン。
いや、暑かった。こたいました。
正蓮寺から尾根を西へ走って、三谷へ下って降りようかと思いましたが、ちょっと気分が悪いので断念。大人の分別。そのまま、県道を駆け下って秦泉寺へ。20km。気分が悪うなるくらい暑く、心地良い炎天下ランでした。
ところで。
土佐史談の最新号。それに、我が敬愛する自由民権運動研究家の公文豪先生が「板垣退助と西郷隆盛肖像画」という玉稿を書かれております。
西郷隆盛は、生涯、写真に撮られることは無かった人物。で、イタリア人画家のキヨソネが描いた、洋服を着た肖像画が最も有名なので、西郷隆盛はあんな感じ、と、皆思うております。キヨソネは、明治天皇の御真影も描いておりますき、権威抜群。
しかし。
西郷を知っている人々からは、どうも似てない、との評判があるキヨソネ作の肖像画。
西郷とはかなり近しい親交があったのが板垣退助。征韓論に敗れ、一緒に政権から離れて野に下ったりしちょりますき。
その板垣が、明治40年になって、それまでの肖像画に西郷に似たものが無いことを憂い、熊本出身の画家、光永眠雷に色々と指示して描かせた肖像画があります。これは、西郷未亡人のイト子さんを始め、近しい人々の意見をかなり盛り込んだ肖像画で、どうやら、決定版にかありません。板垣曰く「少なくとも出来の悪い写真位のものになった」との表現。板垣の性格上、かなりの自信作であったのは間違いない。西郷の長男、西郷菊次郎や板垣、西郷に随従した高島鞆之助などなどの評価として、その肖像画が、かなり実物に近いと証言しておられます。
公文先生は、かなりの文献を渉猟され、その光永眠雷さんに板垣退助が描かせた肖像画が、西郷隆盛を最も正確に伝える肖像画である、ということを証明されました。土佐史談最新号で。
その肖像画は、これ。
期待しました?
そう。その肖像画、ネットでもなかなか見ることできません。Googleで、西郷隆盛の肖像画を検索すると、たくさんの肖像画が出てきます。しかし、その、最も似ておる、という画像は、出てこない。歴史というのは、そんなもんだ。嘘が流布するので、気を付けんといけません。
西郷隆盛はどんな容貌であったのか。気になる方は、ぜひ、土佐史談最新号、259号をお買い求めください!
新しくなった金高堂さんで、売っております。