限界自治体の、美しい風景〔4426〕2015/05/29
2015年5月29日(金)薄曇り
ここは怒田。ぬた。
高知県長岡郡大豊町怒田。昨年の大雨で、地滑りの危険性が高まって、一部地域では長期間避難生活を余儀なくされた、山の斜面の集落。
大豊町は、とにかく山深い。山深いですが、そんな場所に、かなりの規模の集落が点在します。そんな集落の一つが、怒田。谷を挟んで反対側の山の斜面は八畝。ようね。怒田と八畝は、見事な棚田が美しいので有名でもあります。
そして、弊社の青汁「菜食健美」の原料野菜の、主要産地のひとつ。
今日はですね、その、怒田、八畝地区の青汁原料野菜生産者の皆さんの、勉強会。県の農業改良普及員さんの指導で、現地での勉強会なんですね。農薬不使用なので、虫対策とか。
この地区も、高齢化が進み、人口が減少して、日本の中山間の典型的な状況を呈しております。ただ、この地区には、今、高知大学地域協働学部の学生さんがフィールドワークに入り、地域の現状を体感し、調査し、一緒に、未来を切り開いてゆく取り組みを始めております。
中山間が元気になってこそ、日本という国土が成り立つのである、という持論の小生としても、非常に注目しておりますし、弊社も、青汁原料契約栽培によって少しでもお役に立てれば嬉しい、と思っておるところでございます。
大豊町。限界集落、という言葉をご存知でしょうか。65歳以上の割合が、人口の50%を越える集落。日本にはそんな集落が山ほどあり、どんどんと増加しております。で、自治体全体で、65歳以上が50%を超える町村を限界自治体と呼びますが、大豊町は、日本で最初に限界自治体になった町。2005年までは、全国で唯一の限界自治体でもありました。
大豊町の、現在の総人口は4000人弱。1970年には12,440人おった、大豊町が、遂に4000人を割り込んでしまいました。
そして、この怒田地区の人口はと言いますと、この4月30日現在で79人。79人ですきんね。
で、調べてみました。
延享二年(1745年)の豊永郷差出控によりますれば、怒田村では、「田役」が1102人、「紙漉」12人、「郷士」3人とあります。
延享の手前の年号の寛保郷帳では、戸数68で、人数599人。誤差はありますが、いずれにしましても、500名以上の住民が、この山里で暮らしておった訳だ。江戸時代の中頃に。
それが、現在は79名。
地方創生とかなんとか、色々と始まりました。
人口20万人くらいの都市を中核として、そこに資源を集中して活性化させていく、という方法が国の役人などによって進められ始めましたが、それでは、時間稼ぎにしかならんのは自明。
また、中山間に知恵を出させ、うまくいきそうなものに補助金を出す、という仕組みも、今までの失敗を見てきたら、成功しないことは、自明。
しかし、この山の風景があってこそ、日本という国土な成り立ってきたことも、自明。ここに500人〜1000人が暮らしていたのが、今は10分の1になってしまった。それが、今の日本。
地域の問題の答えは、霞が関にはなくて、地域にある、と思います。日本という国が、我々の子、孫の時代にキチンとした姿で残ってゆく。そのためには、こんな風景が、キチンと残され、維持され、栄えてゆく仕組みを、作りあげていかんといかん、と、このところ、よく考えます。もちろん簡単なことではない。しかし、どうしても、やって行かんといかん、我々にとって、最重要な問題である、と、思えてならないのであります。
日本という国土が残り、栄えてゆく鍵を握るのが、この、山の、美しい風景だという、直感。