野市、深渕、洪水、段丘崖〔4402〕2015/05/05
2015年5月5日(火)快晴!
いや〜、良いお天気のこどもの日。素晴らしい端午の節句。
今朝は、早朝起きだして、電車通り沿いに南国市の会社まで。会社で一仕事済ませ、再び走り始めて野市の青少年センターまで、紆余曲折の20kmラン。日差しはキツイものの、風は五月の爽やかさ。なので、もう、これ以上ないくらい心地良いランとなりました。最高のお天気。
野市では、段丘の境目を走ってみました。
昨日も書きましたが、野市の町は、今から10万年以上前に形成された洪積台地の上にあります。海水面が上昇した間氷期に、浅海底で堆積した扇状地。その扇状地が海水面の低下によって台地
となり、それを物部川が開折していった。
南国市の、幣社がある平地は、そうやってできちょります。
長岡台地と野市の台地は、同じ扇状地なんですね。同時期に堆積した土砂によって形成された一つの扇状地が一つの台地となり、その一つの台地が物部川によって開折されて、二つの台地に分かれることになりました。
開析によってできた沖積平野の東端は、野市の、物部川沿いの段丘崖。と、言うことはですね、物部川の流路は、今迄の歴史の中で一番東を流れておる、ということになるのかも知れません。
深渕という集落は、野市の段丘下の、物部川の河川敷のような場所にあります。なるほど。
このにっこりで、野市の深渕神社を何度かご紹介してきました。古くからのホノギ名で言えば、今の深渕神社は深渕にあるのでは無い、ということに、今日、気付きいたのであります。
以前もご紹介した通り、深渕神社は、延喜式内社で、由緒ありまくり。嘗ては、原部島という所にあり、藩政期前期の寛文年間、洪水で壊滅して十善寺地区に移転。しかしそこも、明治25年の大洪水で被害を受けて、現在の、段丘崖の東、台地の上の場所に遷ってきたと言います。
その明治25年の大洪水。すごかったにかありません。
今日、走りよりましたら、その大洪水の際の碑を発見しました。十善寺公民館のところ。昔の国道55号線の物部川の橋を野市側に渡ってしゅっとの北側。
「明治25年7月23日の物部川大洪水のため、深渕神社の社地はじめ下井溝が102門崩壊流失、毎日300余人役と30日をかけて復旧した。」
と書かれた説明板が立ち、改築記念碑が立てられちょりました。
写真は深渕。
向こうに段丘崖が見えます。あの上が、野市の町。遠くに三宝山も見えます。あの段丘崖の下を下井溝が今も流れます。
つまり、明治25年7月23日の洪水は、この台地下の平地を洗い流してしまった、ということが解ります。さしもの大洪水も、あの段丘の上までは至らんかった、ということ。
で、この深渕で、一段高く盛り上げた土地に、小さな祠があるのを発見しました。
ひょっとしたら、ここが明治25年までの深渕神社であったのかも知れない。慶応年間の手水鉢がありました。結構盛り土しちょりますが、あれっぱあでは大洪水ではなんともならんかったと思われます。
左端の森が、その盛り土の祠。ここが洪水になり、向こうの段丘崖まで川が広がっていた明治25年7月23日の風景は、あの盛り土の上の神社もすべて洗い流していったのでしょうか。
ところで今日はこどもの日。
何か、違和感がありました。そう。南国市や野市を走りよっても、鯉のぼりやフラフが、実に少ない。もう、そういった風習が廃れてきたのと、そもそも祝う男の子が、少ない。
ちょっと寂しさを感じた端午の節句。