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石山、膳所城、そして礎石〔4395〕2015/04/28

石山、膳所城、そして礎石

2015年4月28日(火)快晴!

今朝は滋賀県。昨日の夜、やって来ました。南彦根で商談を済ませ、宿泊は石山。大津市の石山。JR石山駅のしゅっと近くに泊まっちょりました。石山は、琵琶湖から瀬田川が流れ出すところに位置するので、太古の昔からの交通の要衝。
今朝も5時から起き出しまして、要衝中の要衝、瀬田の唐橋を渡って東岸へ、そして北上し、琵琶湖に架かる近江大橋という長大な橋を渡って膳所へ。膳所城趾を堪能して、石山へ帰ってきて10kmラン。心地良かった〜。

瀬田川。琵琶湖から流れ出る唯一の川、瀬田川。どこまでが琵琶湖でどっからが瀬田川かよくわからん、そんな地形。その部分、ボート競技や練習にボッチリながでしょうね。早朝からたくさんの競技用のボートが浮かび、若者たちが練習に勤しんでおりました。美しい風景。

石山、というのは、この南の石山寺に由来します。石山寺には、硅灰岩(けいかいがん)という奇岩が露出しちょりまして、それが故に石山と呼ばれる訳だ。石灰岩が、地中から突出した花崗岩と接触し、その熱作用によって変性したもの、とあります。なるほど。
ちなみに、大阪城は、かつて石山本願寺があった場所に建ちます。もう、このにっこりの読者の皆様はご承知の通り、そこは上町台地という洪積世に形成された洪積台地の上。つまり、砂礫層。なので、巨岩が生えちょったりすることはない。何故、石山、と呼ばれるようになったのか。

調べてみますれば、蓮如がその地に本願寺を建設した際、礎石に使えるような大きな石が多数揃うちょった、という不思議な事象から、石山本願寺と呼ぶようになった、という説があります。
ご承知の通り、あの界隈は、太古の昔に難波宮が造営された土地。難波宮に使われた礎石が残っちょったがかも知れませんな。

礎石。
この写真は、膳所城趾の南側から琵琶湖を撮影したもの。二の丸があった辺りからの撮影。向こうに見える橋は、長大な近江大橋。あれを走ってきました。
左手の森。膳所城趾。
慶長5年、つまり関ヶ原で天下が家康の手に落ちた直後、家康の指示で、築城の名手、藤堂高虎によって計画、築城された城。天下普請第一号、という、重要な城。
この南には、今朝走ってきた瀬田の唐橋があります。
大軍を移動させるには、陸路でないといけません。琵琶湖を迂回して陸路、東西を行き来しようとすると、瀬田川が狭くなって架橋できる北限。そこに架けられた瀬田の唐橋は、古くは壬申の乱などでも、重要な決戦の場所となりました。そんな要衝に近い膳所崎に、家康は、天下普請第一号のお城を築かせたのであります。

礎石。
この城趾に、石鹿地蔵尊という、古い石仏がたくさん並んだお地蔵さんがありました。その由来を読んでみますれば衝撃の事実。
元亀2年(1571年)の、信長による叡山焼き討ち。凄絶な皆殺しの焼き討ちで比叡山は壊滅しましたが、その際、信長は、比叡山にあった石地蔵を全部引き摺り下ろし、明智光秀に築かせた坂本城の礎石にしたのだそうだ。で、本能寺の後、秀吉が浅野長政に命じて大津城を築城させた際も、その坂本城の礎石になっちょった石地蔵を運んで、またまた礎石にしたとか。
更に。
藤堂高虎が家康の命でここに膳所城を築いた際、その大津城の礎石の石地蔵を運んできて、使うたと言います。

明治になって廃城となり、お城の建造物が取り壊された際、300年振りにその石地蔵が出てきました。昭和38年、有志によって、城跡の一箇所に集められ、石鹿地蔵尊として祀られるようになった、と、説明板に書いちょりました。

礎石、というのは重要にして貴重であったのでしょう。かつては、使い回しをしておったようです。それにしても、石地蔵を全部引き摺り下ろして礎石にするとは。信長恐るべし。

今朝も、その石鹿地蔵尊の前を通りかかる多くの善男善女が、立ち止まり、手を合わせていく風景が美しかったです。


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