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歴史館、野々村家、酒井山内家〔4354〕2015/03/18

歴史館、野々村家、酒井山内家

2015年3月18日(水)薄曇り

暖かい朝。ここ、高知城では、もう花見用のぼんぼりがしつらえられ、春の雰囲気が盛り上がってきております。

写真左手。以前、財務事務所があった場所が、今、工事中になっちょります。南側のくみあい興産駐車場の場所も含めた広い土地。ご存知、歴史館が建設されゆうのが、ここ。
歴史館建設に先立っての埋蔵文化財調査で、南の方から、中世に構築された水路や道などの遺構が発見されました。大高坂山の東に、浦戸湾に向こうて舌状に延びる砂洲が、徐々に埋め立てられ、人が住むエリアとなっていく、その過渡期の遺構として、かなり興味深いものでした。

しかし。
その遺構は、歴史館建設の為、完全に壊されてしまいました。歴史館を建設する為に、本物の貴重な遺構を破壊する。なんか、本末転倒の気がして悔しい。大阪や松江などのお城の下の歴史館がそうであるように、地下で、遺構を保存展示するようにしてもらいたかった。県は、それほど重要な遺構とは思っていない、との見解で壊したそうです。

それはさておき。その中世の遺構の上部には、当然近世の遺構。江戸時代の、様々な異物が発見されました。藩政期、ここに住んでいたのは。
そう。昨日、一昨日とご紹介した、壱岐殿の子孫達なのでありますね。酒井壱岐、山内姓を拝領し、二代藩主忠義公の妹を嫁にして、山内吉佐を名乗った人物は、土佐藩の中老。家老本職ではなく、その下の役職。

で、昨日も書いたように、野中兼山失脚に合わせて出世したのが壱岐殿の息子の山内豊吉。家老本職になり、3530石に増石。忠義公の甥にもなりますきんね。
兼山失脚が寛文3年(1663年)。手元に、その6年後、寛文9年(1669年)の、高知の城下の住宅地図があります。それを見てみますと、現在の高知市役所の所に山内織部、とあります。山内下総豊吉の息子が、山内織部豊重ですき、酒井山内家は、そこがお屋敷であった訳だ。現在の市民図書館まで含む、広大な屋敷。

時代は下って、享和元年(1801年)の城下の住宅図を見てみます。すると、市役所の所は東御屋敷、西御屋敷、となり、殿様の施設。で、この左手の、歴史館建設現場の広い土地に「山内左衛門」とあります。壱岐殿から言うて9代目、豊吉から言うと8代目の、山内左衛門佐順と思われます。前々年に、藩に対し、領地の甲原村への10年間の逼塞と組支配などの勤事御免を申し出て認められた左衛門さん。
追手門の真ん前の、こんな一等地に住む家老本職の酒井山内家が、財政がかなり厳しい状態であったにかありません。しかし、土佐藩にとって重要な家柄であることには変わりなく、ここにお屋敷を置き続けた酒井山内家。

幕末、慶応三年頃の住宅図では、この左手の歴史館建設現場に「山内下総」とあります。壱岐殿から数えて11代目の、山内下総佐成さんでしょう。結局、幕末まで家老本職の家柄であり続けた酒井山内家。

この建設現場から発掘された近世遺構は、恐らくは酒井山内家のもの。いや、藩政期初期の寛文9年の地図には「野々村長左衛門」とあり、野々村家かも知れません。野々村家が家老職であったのは、長左衛門の二代後の作太夫まで。その後、ここに酒井山内家が引っ越してきたがでしょうか。

藩政期を通じ、家老であった家柄はそんなにありません。断絶、格下げなどで家老職を失い、新たな家系が家老職になる、という、かなりの新陳代謝があった江戸時代。酒井山内家は、財政状態が厳しい中、最後まで家老として生き残ったしぶとい家系なのでありますね。成る程。


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