新市町〔3434〕2012/09/09
2012年9月9日(日)降ったりやんだり照ったり
この夏を象徴するような、突然ガイに降ったかと思うたら照ったりするややこしいお天気。今年はいよいよこんなお天気が多いです。突然の大雨が多いので、川も濁りっぱなし。物部川はもう、鮎漁にはならず、こないだの四万十川でも今年はホントに少ないそうです。そんな貴重な天然の鮎を、しかもかなりのサイズの釣りだちの鮎を食べれた小生は果報者。
今日は中央公園で、サニーマート様主催のサニーフェスタを開催しよりました。ひまわり乳業もブースを出しちょります。お陰さまで大変な人出でして、すごいことになっちょりました。ご来店頂きました皆さん、ありがとうございます。
さて、ここはそっから東へ行った新市町。写真左下、掲示板に新市町親和会と書かれちょります。新堀小学校西門から西へ向かう通り、新市町。この左手に新堀公園があり、そこに、新市町の由来が書かれた案内板が立っちょりました。その文章を転載します、以下転載。
長宗我部元親が一時期城下町をつくろうとしたとき、岡豊の市町から住民を移したという町。櫛屋や麹屋、酒屋などの商人街で、長宗我部時代から千部経祭礼に市を立てる特権を得ており、江戸時代にも一時、土佐神社の千部経祭礼に出店する露天商から芝銭を徴収していた。幕末の町絵師、絵金はこの町の出身である。
以上転載。
と、いうことで、ここは16世紀末に長宗我部元親さんによってつくられた町。元々、現在の江ノ口川と鏡川に挟まれた中須のような土地。そこに、中世、大高坂氏などが町を形成していった訳です。現在、お城の東の発掘調査が進みよりまして、湿地帯に町がつくられ始めた時代のことがちょっとづつ明らかになってこようとしております。来年以降の、追手前小学校運動場の発掘調査が楽しみ。あの場所は、高層ビルの基礎がつくられた過去がないので、古い遺構がそのまんま残っちゅう可能性が強いそうです。謎に包まれた中世の土佐、その中心部形成の謎が、ひょっとしたらかなり解き明かされるかも知れん訳です。こりゃあ楽しみ。楽しみぢゃあないですか?
さて、その重要な土地に、岡豊を本拠としちょった長宗我部氏が移ってきました。その際、岡豊にあった繁華街をここに移設してきて、都市を形成していこうとした訳です。元々の市町の痕跡は、以前ご紹介しました。現在ではまったくの田んぼ。もし、元親さんによって移設されんかったら、あそこは今でも土佐の繁華な場所やったかも知れません。
そして新しく市町になったこの場所。山内氏が城下町を形成する以前からあった新市町は、藩政期を通じて、高知の城下の繁華な町として賑おうたのでありました。