久礼、熊野神社の地震碑〔3313〕2012/05/11
2012年5月10日(金)晴れ!
あの、何やら不可思議な霞みもやっと晴れて、美しい青空が広がりました。心地良い風が吹き抜ける初夏の高知。海もひねもすのたりっちょります。
昨日の夕刊と今朝の朝刊に、昨日発表された県内各所の津波浸水予想が掲載されちょります。過去の津波被害の記録に鑑みて、最悪の予想としては妥当なものであったような気がします。最悪は最悪として、やはり、過去、その土地がどんな被害であったかをキチンと知っちょくことは、こじゃんと重要なこと。
今回の予想で、中土佐町の久礼は、町役場の所で13mの浸水となっちょりました。昨年の震災後、3月31日のにっこりで、久礼が過去の津波にどんな被害をうけたのか、古文書や言い伝えによってわかることを、詳しく書きました。
海に面した久礼八幡宮は、1707年の宝永地震津波では完全に流失、1854年の安政津波の際は絵馬まで波がきた、ということです。で、宝永は10m、安政は8mくらいやったがやないろうかと考えられました。ですき、今回、最悪13mというのは実に妥当であると考える訳です。
ところで久礼には、明治の頃に建てられたと思われる震災碑があります。役場から西へ行った突き当たりの北側の山裾。石段の上に熊野神社さんが鎮座ましましちょりまして、その境内にございます。そんなに大きい石ではないですが、色んなことが刻まれています。かなり読みづらい状態ですが、拓本にして書き取った方がいらっしゃいますので、転記してみます。欄外やら裏やらにもビッシリと書き込まれちゅうので、内容は順不同。
白鳳十三年 寅十月十三日 黒土のこをりヲチ入
寳永四年亥年 長沢ミドノコエ ツナミ大坂ユノ浦
大川ユツメシヲ入四十八年ぶり
維持安政元甲寅年 十一月五日震午后五時潮立漲入中通一丈二尺
村中札場下町流出
上?シリ日ノ川松ノ川?シヲ入 七へん入
明治?三年トラ七月廿七日大水中ノ通八尺
村内地所六分アレ
同?六年四月廿八日ヨリ七月二日マデ日でり
山十月のゴトキ
イく末や 時をうつ際 梅さくら
碑(いしぶみ)や 幾世経て見る 苔の花 高橋伊平
まず一番上は、白鳳の地震で、黒田郡(ごおり)という大きな町が土佐湾に沈んだという伝説を伝えるもの。その下に、宝永の津波がどこまで来たかを伝えます。安政の津波は一丈二尺ですき3.6m。他の記録では8mくらいのもありますき、この辺、多少があります。その下には、洪水や日照りの災害についても刻まれ、二句、高橋さんという方が詠んじょります。判読できん文字は?にしちょります。
いつもご紹介する、宝永地震津波の状況を奥宮正明さんが克明に記した「谷稜記」の、久礼についての記載は次の通り。
亡所
潮は、南は逢坂谷まで 中は常源寺の植松かぎり 北は焼坂の麓まで 市井三ケ二海に没す 死人二百余人
貴重な情報です。これで、地元の方は最大規模の津波が想像できます。