11月5日は安政地震津波〔3125〕2011/11/05
2011年11月5日(土)小雨
今日は11月5日。嘉永7年11月5日、土佐の海岸を、安政地震と大津波が襲いました。西暦では1854年。すぐに安政と改元されておりますので、嘉永年間に発生した地震ですが安政地震と呼ぶがが普通です。
それから157年。昭和の南海地震がありましたが、我々土佐人の記憶としては、規模が大きかった安政の津波が鮮明です。
ここは宇佐。右端に、安政地震津波の4年後に建てられた安政地震碑。東日本大震災前の1月19日と、地震5日後の3月16日にご紹介しちょります。特に3月16日のにっこりでは、碑文の内容もご紹介しました。
現在、ここを流れる谷川の護岸工事が行われよりまして、その碑は、まぎらんクに寄せられちょりました。写真右端に写っちょりますね。工事完成の暁には、なぜ、この碑が建てられたのか、そして、碑文の内容を誰でも読める形でわかるようにしてもらいたいです。
そ の碑が建立された際に法要したのが宇佐、真覚寺の住職、静照さん。地震から何年もの間、克明に日記を記してくれちょりまして、ものすごい貴重な資料となっ ちゅう真覚寺日記を書いた住職。その、11月5日当日の日記は、それはそれはすさまじい状況を記してくれちょります。そして後世への教訓も。例えば。
「惣じて大変の時の汐は進は緩く退くは急也」
今回の東北を見ましても、津波が引いて行く際の波の強さが際立っちょったようです。
「此の時山を目当てに逃げしものはみな命を助かる 船にのり難を遁れんとせし物は溺死多し 沖より波来るのみにあらず 海近き土地は下より汐吹き出すもの也 能く心得有りたし」
小さな船で避難しょうとするがは、最も危険であると、須崎の碑文にも出てきます。
そして、このにっこりでもご紹介する宝永地震津波の記録「谷稜記」のことも、その当日の日記に出て来ます。
「奥宮正明が記せる谷稜記に 宝永亥十月四日大変の節は宇佐は亡所 潮は橋田の奥 宇佐坂の麓 萩谷口迄 山上の家壱軒残る 在家の後ろの田丁へ先潮廻しけるゆえ 通路を失い溺死四百人余りと有り 当浦には亥の大変のたしか成る記録なきゆえ くわしきはしれ難し」
萩谷口とはここ。宝永の際は、港からとっと離れたこの谷奥まで津波がやって来たとう訳です。
それにしても、地震津波当日の日記に、宝永地震記録の谷稜記を引用するとは、その情報収集能力にビックリします。それがわかっちょっても、安政地震津波では大被害を被っちゅうということ。現在、情報収集能力が当時より進んじゅうというのは過信かも知れません。