壊れたままの鳥居とレッドカーペット〔3081〕2011/09/22
2011年9月22日(木)台風一過
台風は、またまた日本列島に被害をもたらしながら去って行きました。自然のすることとは言え、なんとも言いようがありません。被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
さて、高知の今朝は良いお天気。一気に秋がやってきたようで、涼しい朝になりました。ここはいつもの野市、上岡。昨日撮影した場所は、あの上岡山の向こう側になります。
こないだもちらっと書きましたが、上岡八幡宮から南東に延びる、昔は参道やったと思しき小径が、今の季節、彼岸花でレッドカーペットになるがです。あの上岡山の八幡様から延びてきちゅう小径は、ここで終点。昔は、もっと南東につながっちょったがでしょうか。
こ の両脇に石柱。手前の2本は、鳥居の柱やったもの。嘉永3年と刻まれちゅうにかありませんので、境内入り口にある鳥居と同時期に建てられたものと推察され ます。この、右手の石柱の向こう側に、柱の上部の間に架かっちょった笠木の部分が置かれ、土に埋もれちょりました。いつか、壊れたものと思われます。 ひょっとしたら、できて4年後の嘉永7年かも知れません。安政南海大地震。実は、境内入り口の鳥居も、笠木の部分は新しい石でできちょります。古い笠木 は、境内の隅っこに置かれちょります。同時に壊れたものと推測できます。と、いうことは、かなり大きな破壊力。安政地震の可能性が高いですね。境内入り口 の鳥居は、後世、修復されましたが、こちらの参道は使われることな無いなり、修復されませんでした。
境内入り口の脇には、地元の島内武金さんが建てた小さな地震碑があります。何度かご紹介しました。文面は、
嘉永7年11月5日、大地震。地面がいたるところで沈み、人家流失、人的被害が夥しかった。上岡山西河原まで、津波がきたことを記す。
と いうもの。わざわざ「西河原」と書いちゃありますき、東側のこの界隈は、ひょっとしたら無事やったがかも知れません。しかし、1707年の宝永地震の際 は、間違いなくここまで津波はきております。右端の民家を見ればわかりますように、上岡山を起点に河岸段丘が形成され、あちらは一段高うなっちゅうがで す。どうやら宝永の際は、あの上までは津波も来んかったにかありません。
油断は禁物。今次の震災を見ると、ものごとは1000年単位で考えんといかんようです。そんな昔の、この界隈の被災記録は、文書とかでは残されちょりません。