命山がない風景〔2903〕2011/03/28
2011年3月28日(月)快晴!
良いお天気。日中は暖かくんりそうな高知県地方。
ここは今朝の高知空港。空港敷地の南東端近くから、北西方向の写真を撮影してみました。右手に管制塔と飛行機が見えます。滑走路は、この写真のもうちょっと右手から、写真中央の彼方に向こうてまっすぐに伸びちょります。こないだも書きましたし、以前、詳しゅうに書いたことがありますが、この風景の中に命山がありました。太平洋戦争末期まで。
この空港は、太平洋戦争が終盤に入り、劣勢が明らかになってきた頃に、海軍の飛行場としてつくられました。
ここで訓練した飛行機乗りたちは、鹿児島から飛び立つ特攻隊員となり、多くの若者が犠牲になりました。白菊という練習機で訓練しよったそうで、この撮影した場所の近くに白菊部隊の碑が建っちょります。
ここへ空港をつくる際、滑走路予定地に標高20m弱の小山がありました。それは、飛行場建設にまぎります。そこで、爆破、撤去されることになりました。高知の秦地区で、秦史談会の会長さんとして活躍される松本さんは、勤労動員で、その山の撤去作業に駆り出されて土砂を運んだそうです。
実はその山の通称は「命山」。こないだも書いた通り、1707年の宝永南海地震による大津波の際、この海岸に住む皆さんは逃げまどい、この小山に逃げ登ったり、流されてたどりついたりした方は助かったがです。で、命山とか宝山とか呼ばれるようになったと。
今は、ご覧のような広い平地。しかも、空港敷地はこのようにフェンスで囲まれ、入ることはできません。海岸はこのすぐ近く。久枝、前浜、浜改田は、海岸の盛り上がった場所に東西に延びる集落。たしかに、昭和の南海地震の際には、津波はその集落までは押し寄せんかったようです。しかし、宝永の際には押し流しちょります。想定すべきは宝永以上。
この、命山がない風景は、ちょっと考える必要があります。避難できる頑丈で高い構築物が必要ですね。もちろん小山でもかまいません。