宇佐、安政大地震の碑文〔2891〕2011/03/16
2011年3月16日(水)晴れ
ここは今朝の宇佐。港の、漁協のあるところから北へ、昔からの遍路道沿い、萩谷口という高岡方面への峠の登り口。ここに、以前にもご紹介したことのある、安政地震碑があります。
この碑が建てられ、法要が行われたのは安政5年6月15日。法要したのが宇佐、真覚寺住職の静照さんで、その方の、有名な真覚寺日記に、その日の模様が描かれちょります。この碑には、グルリと、安政南海地震の模様が刻まれ、後世への戒めにしております。刻まれた文面を、昨日のように、現代土佐弁に読み下してみます。
南無阿弥陀仏
安政元年11月5日、午後4時頃に大地震が発生。日没前から大津波が襲うてきた。ものすごいスピードで、8回も9回も襲うてきて、人家は流され、残った家は6
~ 70軒ばあのもんとなり、溺死した男女は、宇佐、福島合わせて70人以上になったがよ。宇佐の地形は、海岸の方が高く、奥の方が低うなっちゅうので、東は岩崎、西は福島の、低うなっちゅう所から津波が入り込んできて、街の人の避難路を妨げるように取り巻いてくる。ほんで、昔の宝永の南海大地震の時にも、油断しちょったモンは死に、その数は夥しいもんぢゃった。今回の地震でも、その宝永大地震の言い伝えを信じて取り敢えず山手に逃げ登ったモンは、みんなあ助かった。食べるもんとか着るもんとかを用意して避難しょうとした人とか、狼狽して船に乗って海に出ろうとした人らあは、可哀想に、みんなあ流され、死んでしもうた。
翌日には、備蓄されちょった、いざという時のための米倉が開けられ、配給されたので、有り難いことに飢えたり凍えたりするモンは居らんかった。
将来、地震、大津波に遭うひとらあは、何の用意が無かったち、とにかく、早く山の平らな、そばに岩の無い場所を選んで逃げんといかん、絶対。流された家材とか衣服とかを拾い、儲けたと思いよったモンも居ったにかあらんが、彼らは間もなく流行の伝染病にかかってみんなあ死んでしもうたと聞く。
ここに、溺死された皆さんの菩提を弔うために、衆議して、この碑を建てることにした。
安政4年11月
世話人西村耕助・・
この文章が書かれたのは安政4年11月で、この碑が建てられ法要されたのが安政5年6月。地震から3年半経過しました。一昨日の、赤岡、飛鳥神社の碑も、安政5年に建てられちょります。3年以上経過して、やっと、地震のことを振り返り、後世への戒めを碑に刻むことだでき始めたということでしょう。
一刻も早い復興を望みます。