琴平山、安政地震の玉垣と岸本新町〔2641〕2010/07/09
2010年7月9日(金)雨のち曇り
今日の朝は雨でした。雨の早朝夜明け前後、会社のある南国市の海沿い近くにある十市(とおち)へ寄っちょりました。ライターの渡辺瑠海さんに教えて頂いたがですけんど、十市の琴平山てっぺんにある琴平神社には、安政の大地震のことを刻んだ9本の玉垣があるそうです。
朝5時過ぎの琴平山は雨の中幽玄にたたずんじょりました。社殿は思いの外大きく立派で、玉垣とかの寄進者の住所も県下一円に広がり、海上安全の神様として広く信仰を集めちゅうことがわかります。
この神社の創建は天智天皇の時代という言い伝えがあります。当初は現在の土佐湾で栄えた黒田郷にあったとされます。紀元 684年の白鳳の南海地震、これは有史以来最大の地震とされるものですが、この大地震で、伝説の黒田郷は土佐湾に沈んだとされ、神社も一緒に沈みました。で、浜改田に再建され、寛永18年(1641年)、現在の山頂へ移ってきたというお話。
さて、そんな、地震と関係のある琴平神社に寄進されちゅう玉垣に安政地震のことが刻まれちゅうということです。最初、なかなかわからんかったがですが、神社横にお住まいの奥様が出てきておられたので訊いてみたら教えてくれました。
たしかに、写真の通り、「安政と目出度改元あらせ・・・」と刻まれちょりますが、古文書の読めんひまわり太郎にはひとっちゃあわかりません。誰か専門家さんにいっぺん読み下してみらいたいですな、こりゃ。で、どうやって探しても8本しかよう見つけませんでした。しかもこの玉垣がいつご寄進されたがかがわからん。と、思うて見よりましたら、向かって右端の更に右の植え込みに四角い大きな石柱がコケちょります。見ると、それが当該玉垣の端っこの柱。草をかき分けて刻まれちゅう文字を読むと安政五年。なるほど、地震のことを刻むタイミングとしては丁度。いや、こないだご紹介した赤岡、飛鳥神社の徳永千規さんが書いた地震の碑文も安政五年でした。と、思うてもう一度この一連の玉垣を見ると、真ん中の大きな柱に「岸本新町」と刻まれちゅうではありませんか。岸本と言えば、何と、あの徳永千規さんが刻んだ碑の建っちゅう場所は赤岡町の岸本。
その岸本には徳永さんの建てた碑が、そして、十市琴平山の玉垣には岸本新町の皆さんご寄進による地震のことを刻んだ玉垣が。しかも同じ安政五年。何か関係あるがでしょうか。とにかくこの文章を誰かに解読してもらいたいもんです。