徳島城、清玄坊、酒巻和男さん〔2527〕2010/03/17
2010年3月17日(水)徳島も快晴!
昨日から業界の寄合で徳島。もう、高知へモンて来ちょりますが、昨夜は徳島駅前に泊まっちょったので、早朝からここ、徳島城址へ駆け上ってきました。ここは標高61mの城山のてっぺん。平山城の徳島城と聞いちょりましたきに、ナロい山かと思うちょりました。が、この山、こじゃんと斜面が急で、なんと平均傾度が35.9度もあり、周囲は崖みたいになっちょります。中世から細川氏の城になったりした後、長宗我部元親さんの支配下になり、そして秀吉の長宗我部征伐に功のあった蜂須賀家政さんが城をこさえました。こりゃあ、標高61mとはいえ、なかなか攻めづらい山ですな。見事な天然の要害と言えましょう。石段を一気に駆け上がると結構コタイます。
このてっぺんの段は、なかなか広うございます。ここにあった天守は藩政期初期には取り壊されて、この東の二ノ丸に天守が築かれちょったとか。てっぺんに天守のない、珍しいお城。
この頂上には、ご覧の祠が鎮座しちょります。案内板を読んでみると「清玄坊神社」。清玄坊の元祖は清和天皇。いわゆる清和源氏ですな。で、三好氏と一緒に阿波へ移り、修験者としてこの城山に祈祷所をつくりました。蜂須賀家政さんがここへ築城するに際し、この界隈の全寺社に移転を命じたところ、清玄坊だけは頑として拒否。そこで騙して城下へ連れ出し、紙屋町通行中に背後から弓で射殺したそうです。すると蜂須賀家には凶事が続出、清玄坊の祟りということで、石碑を建て末代まで供養することを誓うたところ、凶事はとまったとのこと。
その子孫に酒巻家という家があります。現在の徳島にも在住するらしいですね。何と、あの、真珠湾攻撃の際に特殊潜行艇で特攻し、故障等で座礁、捕虜となった酒巻和男さんは、その一族。生きて虜囚の辱めを受けず、というバカな戦陣訓のせいで、捕虜になると自決する、ということになった戦中、日本人捕虜の説得に当たって、こじゃんと立派な態度やったことが知られる酒巻和男さん。
こんなところとつながっちゅうとは、ビックリしました。