ここにあった命の山、宝の山〔2486〕2010/02/04
2010年2月4日(木)うっすらと雲が
今朝は高知。昨日の夜、大阪から飛行機でモンて来ました。ここはその高知空港の南東の端っこ。朝一番、7:10高知空港発東京行きの一番機が離陸しゆうところです。
この空港、太平洋戦争後半に、海軍がつくった飛行場をルーツとしちょります。それまでは豊かな農地が広がる田園地帯。物部川の河口に広がる香長平野に位置し、それが故に小高い山も無い平地になっちょります。その向こうはラグーンにもなっちょりました。
地元の古老に聞きますと、この、飛行機が離陸しゆう滑走路の真ん中あたりに、高さ10数メートルの小山があったそうです。
てっぺんからは界隈の村々が全部見晴らせたとか。その小山は、戦争中、飛行場をつくるがに爆破、撤去された小山。その山の名前は「命山」。本名は違うみたいですが、地元では「命山」とか「宝山」とか呼ばれよったそうです。まこと、明治時代の地図を見てみると、確かに命山と書かれちょりました。何故か。
土佐湾沖では、定期的にプレートの沈み込みによる大地震が発生します。一番最近では昭和21年の南海地震。その前が 1854年の安政南海地震で、その前が1707年の宝永大地震。宝永大地震は、マグニチュード8.6と、日本の歴史上最大の地震とされちょりまして、特に土佐の国に津波の大被害をもたらしました。
その宝永地震の際、この界隈の海岸近くに住む皆さんは、津波が押し寄せることを予想して逃げまどいました。近くにあった唯一の高台が「命山」。そこへ逃げ上ったヒト達は、大津波に流されずに助かったそうです。一旦流されて、命山にたどりついて助かったヒトも居りました。
そんな訳で、誰知らず呼び始めた名称が「命山」「宝山」やったという訳です。
ひまわり太郎が所属しちゅう秦史談会のお世話をして下さりゆう松本さんという方がいらっしゃいますが、松本さんは、戦争中、勤労動員で命山を撤去する土運びをやられたと伺いました。
この飛び立つ飛行機の下にあった命の山。
今度の南海地震の際は、皆さんはどこへ逃げるがでしょうか。