宮城県柴田町、伊達騒動の柴田外記さん、原田甲斐さん供養塔〔1746〕2008/01/26
2008年1月26日(土)宮城県は晴れたり曇ったりで冷やいです
今日は、朝の飛行機で東京へ飛びまして、用事を済ませちょいて新幹線に飛び乗り、仙台までやって来ました。そう。宮城県の仙台市。で、仙台で、「高知育ち」シリーズとかのデザインをやって下さりゆうデザイナーさんと打合せを済ませ、ここ、柴田町の船岡城址までやってきました。仙台から車で約1時間。
ここは、実は昨年の10月4日にも来ちゅうがです。その際のにっこりにも書きましたが、この山には、長宗我部元親さんのお孫さんの供養塔があるのであります。
10月の際にはよう見つけんづくとに時間切れになり、残念な思いをしちょります。ほんで、今日のリベンジとなった訳です。
あの時、どうしてよう見つけんかったがか、不思議なくらいの場所に、その供養塔は建てられちょりました。頂上のちょびっと下の所。簡単におさらいしちょきますと、元親さんの娘さんが土佐の上ノ加江城主佐竹氏に嫁ぎ、男の子を産みます。で、色々あった後、大阪夏の陣で大阪方についた長宗我部氏は滅ぼされ、その母子は、伊達政宗軍に捕らえられてしまいました。で、その時の男の子が、伊達家重臣柴田氏の養子となり、伊達家の覚えめでたく家老まで上り詰めました。柴田外記として有名な人物です。まぎれもなく元親さんの孫。そして運命の1671年をむかえます。
伊達家主導権をめぐって、史上有名な伊達騒動が勃発し、家老柴田外記も巻き込まれていきます。江戸の酒井大老の邸で審理が行われ、一方の首領伊達安芸さんを、もう片方側の重臣原田甲斐さんがその場で斬ってしまいました。山本周五郎さんの名作「樅の木は残った」のクレイマックス。その原田甲斐さんを、今度は柴田外記さんが斬り殺し、双方と酒井家臣入り乱れての大乱闘となって、柴田外記さんも斬られてしまいました。ホントに波瀾万丈の人生の最期。
ここ船岡は原田家の本拠やったがですが、その後柴田家が移封されてきました、ほんで今は柴田町ながでしょうか。
ここに、昭和45年、供養塔が建てられました。原田甲斐さんと柴田外記さんの供養塔。そんないきさつのお二人を並べて供養されゆうががすごいですね。
この左側の塔が柴田外記さんで、ひまわり太郎がまぎって見えにくい、右側の塔が原田甲斐さん。柴田さんの供養塔、正面に柴田家の家紋、右に佐竹家の家紋が刻まれちょります。そして左に刻まれちゅう家紋、お判りになりますでしょうか。長宗我部家の酢漿草の家紋ですね。
やっと、長宗我部元親さんのお孫さん、柴田外記さんの供養塔を、宮城県柴田町で拝むことができました。