鏡川畔の料亭復活〔1735〕2008/01/15
2008年1月15日(火)快晴!
こないだの土曜日、最高気温が18℃を超え、最低気温も10℃以上やったがから比べたら、この2~3日で急に冷え込んできましたね。今朝はうんと冷ように感じましたが、それでも最低気温はプラスでした。基本的には暖かい冬、ということみたいですな。
さて、ここは今朝の鏡川。エライ久し振りの鏡川みたいな気がしますね。天神大橋から潮江橋方面の夜明け空を撮影したがですけんど、この構図、以前のにっこりには頻出しちょりますね。手前のUFO船がいとゆかし。
向こうに灯りの点った潮江橋が見えますが、あの左手の土手の上、唐人町に、先頃、料亭が復活しました。
酒飲み文化が花開いた高知には、以前、どっしこ料亭というものがありました。お座敷遊び華やかなりし頃。ご存じの通り、土佐人はお酒を飲んで議論し、ほたこえるがが大好き。で、堺町からはりまや橋界隈、上町五丁目から西の「上の新地」、稲荷町界隈の「下の新地」を中心に、それはそれはたくさんの料亭がその繁華を競い合いよりました。下の新地の沖合の島、丸山台にもあったというお話は、以前にもしましたですね。
土佐電鉄の歴史を「土佐史談」で読みよりましたら、宝永町のところから南へ、下の新地に向けて電車が走りよったと書いちゃありました。戦争になって電力節約のために休止となり、そのまま戦後を迎えて廃止となたそうです。稲荷町界隈の下の新地は、それっぱあ賑やかやったということですな。
戦後、繁華街が種崎町から帯屋町、柳町の方へ移り、下の新地は無くなってしまいました。上の新地、玉水町は赤線として残っちょったですね。今も名残がありますが。
で、市内中心部にあった料亭も、お座敷文化、料亭文化が廃れていくなかでどんどんと店を閉め、接待予算が全然無いなってしもうたバブル後に最後の一群が閉店されて、かの陽暉楼、つまり得月楼だっけになっちょりました。が、この鏡川畔にあった濱長さん、その娘さんの努力で、この度復活を遂げたのでありました。今度行ってみますね。