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真如寺橋はどこに架けられたのか〔4891〕2016/09/05

真如寺橋はどこに架けられたのか

2016年9月5日(月)雨

台風12号は、九州北部をゆっくりと進む。高知も、今日は一日、雨が降ったり止んだりのお天気になりそう。
写真は今朝、4時過ぎの潮江天満宮。楼門の下にカメラを置いて、北の、手水舍の方向を撮影してみました。雨の天満宮。

潮江天満宮。
その由来は幾度も書いてきたので、ご承知の通り。菅原道眞公の嫡男、菅原高視さんが父の左遷と同時に土佐権守に左遷され、父道真公が太宰府で亡くなった際、その遺品が高視さんの元に届けられた。その遺品をお祀りしたのに始まる、とされる潮江天満宮。
その潮江天満宮の場所は、現在地の東側、真如寺さんの場所にあった、と言う。

関ヶ原の後、山内一豊の土佐入封に際し、前任地である遠州掛川で尊崇していた真如寺の在川和尚を土佐に連れてきて開山させたのが、真如寺。重要なお寺さんだ。
なので、天満宮は少し西の、少しだけ標高が高い場所に遷座。

真如寺は山内氏の菩提寺となる。で、1622年、二代藩主忠義公の時代に、その菩提寺にお参りするという趣旨で架けられた橋が、現在の天神橋。
架けられた当時は真如寺橋。藩政期の絵図を見ると、真如寺橋と書かれたり、潮江大橋と書かれたり。中期以降になると、天神橋と書かれた絵図も、登場します。

さて。何故、今朝はここの写真なのか。
高知市さんが編纂した「描かれた高知市」には、たくさんの、藩政期の絵図が掲載されています。それを見ていくと、興味深いことに気付いたのであります。

藩政期の絵図で、最古級とされるのが、有名な正保土佐国城絵図。正保元年(1644年)、幕府が諸藩に命じて城絵図を作成させました。軍事目的であっただろうと考えられています。その一つに、正保土佐国城絵図がある。この絵図は、幕府に対しての報告なので、計画みたいなのも含まれ、必ずしも実態を反映したものではない、とも言われています。すでに架橋されちょったはずの真如寺橋も、描かれてないし。

そして。少し時代が下った寛文年間。
「寛文己酉高知絵図」という絵図が、ある。寛文己酉と言うと、寛文九年(1669年)だ。この絵図は、幕府への提出が目的ではなく、藩の内政上の目的で作成されたものにかあらん。ので、実際の姿を見ることができる、貴重な資料とされちょります。
その絵図をよく見ると。おう。真如寺橋(天神橋)の位置が、現在地と違うではないか!

ちなみに、それ以降の、例えば元禄十年(1698年)の絵図では、橋は、現在地、つまり大橋通りの南にまっすぐ架けられている。もちろんそれ以降も、全部、そう。

この寛文己酉高知絵図だけは、違う。
現在の大橋通りの道を南下してくると、鏡川に突き当たる。T字路。その突き当たりを右折、つまり西へ向かい、そして、左折して橋。橋を南へ渡ると、鏡川(潮江川)の土手を越えて天満宮参道。参道をまっすぐ南下すると楼門。楼門を抜け、右折すると、天満宮拝殿。そう見える。

そう。その絵図では、楼門の真北に、橋が架かっている。どう見ても、そのように見えるんですな。

この、現在の楼門は、幕末の嘉永六年(1853年)に建てられたもの。ここに、それ以前も楼門があったのかどうなのかは、知りません。
この向こうに、鏡川を渡る橋が架かっていたのかも知れない、などと妄想してみた訳です。

ただ、天満宮のように見える伽藍配置は、真如寺なのかも知れない。この「描かれた高知市」に掲載された写真では、小さすぎて、そこに書かれている文字が読み取れない。
その文字が真如寺だとしたら、橋は、もう少し東。現在の天神橋と、この楼門との中間の北側に架かっていたのか。寛文己酉高知絵図は、高知市民図書館蔵、とのこと。今度、確かめに行ってきます。

どちらにしましても、この、天神橋の位置が大橋通りのまっすぐ南に無い、という絵図の意味するところは、とても興味深い。深くないですか?


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