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帯屋町1丁目の歴史〔4867〕2016/08/12

帯屋町1丁目の歴史

2016年8月12日(金)晴れ!

良いお天気。今日も朝から暑い暑い。
ここは、今朝、5時過ぎの帯屋町。中の橋通りの交差点から、帯屋町1丁目商店街を撮影してみました。
そう。ここでは、昨夜、よさこい祭りが行われていた。とんでもなく賑やかなお祭りの、翌朝の風景。

毎年、よさこい本祭の翌朝は、まだ祭りの余韻が残り、よさこいの衣装に身を包んだままの若者が、夜の続きをやっている。そんな風景を想像して来てみましたら、このアーケードは、そうでもないですね。ご覧のように一群の若者。あとは、掃除や後片付けをする人たち。
昨日も暑かったですきんね。かなり体力を消耗していると思われます。朝まで遊ぶ元気はなかったのかな?
などと思いながら街中へ入っていくと。
居る居る。
まだ、よさこい衣装のまんまの若者が、あちらこちら。よさこいはこれでないとね。よさこい翌朝の風物詩。

帯屋町。
高知市の中心商店街。江戸時代は郭中で、身分の高いの武士が居住するエリア。
しかし、山内氏が城下町を整備し始めた藩政期初期には、一部、町屋が残っておりました。その中に帯屋勘助という豪商がおりまして、そこから帯屋町と呼ばれるようになった、という話は有名。
ちなみに、江戸時代に帯屋町と呼ばれたのは、東は郭中と下町の境目。つまり、今の大丸界隈。正確に言えば「つちばし」のお蕎麦屋さんまで。で、西はと言うと、上町との境目になる訳で、枡形の西。城下で一番長い町であった、と言います。
町屋が存在したのは、寛文年間の頃、つまり1670年頃まで。その後は、完全に武士の町となった帯屋町。

町屋が存在したのは、帯屋町東部の南側、とされます。つまり、新京橋とか中央公園北口とか、あの辺でしょうかね。知りませんが。

身分の高い武士が住む帯屋町。当然、それぞれが広大な邸宅だ。

幕末、藩政改革に辣腕を振るった参政、吉田東洋さんの屋敷は、帯屋町。丁度、この写真、ゴミ収集車が停まっちゅう界隈の北側。つまり左側。
弘化年間の郭中絵図を見ると、吉田光四郎とあり、光四郎の横に「元吉」と書かれています。光四郎は吉田東洋さんのお父さん。で、元吉は吉田東洋ご本人。親子の名前を併記してあるのは珍しい。
吉田元吉くんの活躍出世がすごいので、敢えて書き加えたのでありましょうか。

吉田家のご先祖さまは長宗我部の重臣で、岡豊城の南の吉田という地区を本拠としておりました。以前、吉田城址をご紹介したこともあります。

本来、山内政権下では出世は難しい長宗我部旧臣ですが、とんでもなく有能で、山内容堂さんに抜擢された、吉田東洋さん。

この、写真を撮るのに立っている場所。帯屋町と中の橋の交差点。
文久2年(1862年)4月8日。龍馬が脱藩した2週間後。龍馬の脱藩を手伝うた那須信吾らによって、吉田東洋は暗殺されます。この交差点で。お城から帰る途中に。家は、このように、目と鼻の先でした。享年47歳と言いますき、意外に若かったんだ。

まあ、そんなこんな、色んな歴史が繰り広げられたこの場所は、よさこいの翌朝を迎えております。つわものどもの、夢の跡。


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