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躄(あしなえ)峠を往来した人々〔4654〕2016/01/12

躄(あしなえ)峠を往来した人々

2016年1月12日(火)曇り

昨日、参謀本部陸軍部測量局が明治20年頃に作成したという地図をご紹介しました。そこでも書いたように、まだ、鉄道や道路が整備される前の日本の風景。近世以前からの、日本という国の交通の有り様を伝えてくれる貴重な地図。
で、今朝も、それを眺めながら一考。

写真は、小生の好きな山、三嶺界隈。
四国山地の主脈で、高知と徳島の県境に聳える1893mの山。雄大な原生林が残る素晴らしい山ですが、近年は鹿害が酷い。
で、この地図。右下に四つ足峠が見えます。現在の国道195号線の県境界隈。写真左下を、もうちょっと下がると大栃。まあ、いざなぎ流のふるさとの風景だ。

さて。三嶺。この地図には、その名前は、無い。
高知県百科事典などを見ると、三嶺は、元々「みむね」と読み、最近になって「さんれい」とも呼ぶようになってきた、と書かれちょります。どうやら、この地図では「聖峰」というのがそうにかありません。「ひじりみね」。三嶺は、かつて、聖峰とも読んでおったのか。つまり、霊峰。信仰の山。そりゃあそうだ。あの威容は、神の山。

その聖峰の左に峠が見えます。「躄峠」と書いちゅう。躄は、「へき」「あしなえ」と読みます。そうか、「あしなえ」か。足萎え峠か。
この峠は、土佐側の久保と阿波側の東祖谷山とを結ぶ街道の峠。久保には、藩政期、番所がありました。この黒丸は500人以上の集落を表すので、結構大きな集落。番所も大きく、阿波との往来が結構あったことが判ります。
昨日も書きましたが、この地図を見ると、かつての日本の山中は、今よりもずっと交流人口が多かった、そんな証左。

この峠、現在の地理院地図で見てみますれば「天狗峠」とあります。おう。三嶺登山の際に何度も登ったところだ。標高は1780mくらい。番所があったという久保高井の標高は340mくらいなので、標高差1440m。そりゃあ、足も萎える。
登山の際、車を停めるのが光石。約980m。そっからでも、天狗峠まで登ったら、かなりキツイですが、そんな峠を通って行き来していた昔の人々。現代人とは足の鍛え方が違う、と思わざるを得ません。

その、番所があった久保高井という集落の西には大西。そう。このにっこりで何度かご紹介した、移住者によって人口が増え、限界集落ではなくなったという集落、大西。
7名まで減っちょった人口が、この10年で5組、13人増えて20名となった、という集落。世の中、ちょっと、潮目が変わっていているのかも知れない。
ちなみにこの大西、寛保時代(1741年〜1743年)という江戸時代中期に作成された郷帳には、戸数20、人数124、牛12、猟銃10と記載されちゅうそうです。
山に、たくさんの人が住み、生業を営んでいた時代。山の交流人口が今よりもずっと多かった時代。

明治の地図を見ていますと、そんな社会が成り立っていた構造が解ってきます。徒歩により成り立っていた交通網と、産業構造。

中山間の交流人口を増やしていく、ということは、なかなか難しいこと。山での暮らしが成り立つ仕組み、社会構造は、なんとかして構築していかんといかん。それが日本という国を、人口問題も含めて、成り立たせていく方法だ、と考えるのであります。

そんな夢を掻き立ててくれるのが、この地図。


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