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高見山の風景〔4651〕2016/01/09

高見山の風景

2016年1月9日(土)晴れ!

少し冬らしい朝になってきましたか。
今日は色々と用事があるので、朝のうち、走ってきました。近場、筆山高見山コース。
家を出て、鏡川沿いから筆山へ。車道を駆け上がり、そのまま一気に高見山頂。お天気も良く、早朝から、何人ものハイカーの方に会いました。皆さん、朝が早い。早い年代の方々ばかりですが。
で、そのまま土佐塾高校のある山へ。校舎のある頂上をまわりこむように山道を駆け上りますと、土佐塾高校の食堂の横へと出て来ます。この界隈が頂上でしょうか。
で、そこから東の尾根へと下ってみます。こないだ、六泉寺から登ってきた尾根筋の逆ルート。
途中、北へ下る枝道があったので、どこへ繋がるのかな、と、探検してみたら、高見山と土佐塾高校の山の間の登山道へと出てしまった。
そこから、高見の方へと下り、中腹の、筆山の方へとつながる山道を走って、帰ってきました。12kmラン。

写真は、高見山の山頂から少しライオン岩の方へと下ったところから撮影した、香長平野。
こうやって眺めると、地政学的に、色んなことが頭に浮かんできて、しばらく見入ってしまいました。いや、すごい景色だ。

平野に浮かぶ山々。
介良富士。高天原山。
ぽっかりと島のように浮かぶ島々は、ずべて、太古の昔からの信仰の山だ。昔、人々は、あの山々を信仰の中心に据えて、暮らしていた。

左側。四国山地から突き出しちゅう山。岡豊山。こっからは、鳥の頭のように、はっきりと形がわかります。
独立峰ではない、しかし、周囲を下ろす地勢の、山。あそこを長宗我部氏が本拠とし、勢力を拡大していった意味。ここから見ると、よく解る気がします。
防御に優れた、独立峰のように屹立する山だが、北側は四国山地につながっちゅう。戦国武将の本拠として、実に優れた立地に見えます。もし、敵に攻め込まれて包囲されても、北側に逃げられる。
また、山は高すぎず、低すぎず、界隈を支配するにはボッチリの高さにも見えます。

他の山々を見てみると、右端、とっと向こうの三宝山は、ちょっと高すぎる。見張りの砦には良さそうだが。
いくつかの独立峰は、周囲を囲まれ、兵糧攻めをされたら、ひとたまりもない。
やはり、あの岡豊の山は、前に海とつながる国分川の豊かな流れがあることに鑑みても、土佐を支配する武将が生まれるにふさわしい山に見えてくるではありませんか。見えませんか?

ところで。
この高見山、中腹より上には樹木がない。草だけが生える、お墓だらけの山。写真左下のように、今は冬枯れの草原。定期的に山火事になり、少し木々が生え始めても振り出しに戻る。そんな、他の山とは外見上一線を画した山、高見山。

しかし、南嶺。今、樹々に覆われちゅう他の山々も、山中をたつくってみると、人為の跡がたくさん残ります。畑を耕作したと思しき段々の石組みなど。
そうだ。里山だ。
藩政期の日本。このような都市部では、平地で稲作を中心とした農業。そして畑作も。
山も、石組みが組まれて畑作や棚田。そして、燃料や肥料も、山から調達していた時代。燃料もさることながら、里山の、肥料供給地としての存在は、我々が考える以上に大きかったにかありません。草を育て、採取してきて、畑の肥料、草肥とする。これは、化学肥料の無い時代、下肥と並んで重要な重要なものでありました。

そんな訳で、藩政期の里山には、樹木の森はなく、草が繁茂する風景であった、と言う。
つまりだ。
高見山は、そんな時代の外観を今に伝える山なのかも知れない。あんな外観の山が当たり前で、お留め山でもない限り、都市部周辺の山に樹木の森ができる、ということの方が異例であったのかも知れない。スタンダードは、高見山。南嶺は、高見山みたいな山が並んでおったのかも知れません。

と、まあ、色んなことを考えながら山を走った冬の朝。
良い朝です。


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