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朝倉城が、土佐の中心となる日〔4532〕2015/09/12

朝倉城が、土佐の中心となる日

2015年9月12日(土)晴れ

関東、東北の被害は甚大であるようです。被害に遭われた皆様に、改めて心よりお見舞い申し上げます。丁度9月。関東、東北では、稲刈りを控えた水田も多いでしょうし、これからが実りの季節であることを考えると、これから明らかになってくるであろう農業被害も、非常に気になります。

さて。
昨日の高知は、それこそ雲ひとつないお天気でした。今日は、少し雲は多いものの、晴れております。早朝、鏡川沿いを久々にたつくってきました。
そう言えば、以前は、よく、朝の鏡川沿いを走りよりました。なので、ちょっと懐かしい感じもする。
歩いたり犬の散歩をしたりしておられる皆さんの中には、以前からよくお見かけしたお顔も。それなりに年齢を重ねちょりますな〜。もちろん自分もですが。

そんなノスタルジックな感慨に耽りながら美しい河畔を遡上。鏡川橋を渡って鴨部、朝倉へ。今日の目的地はここ。久々の朝倉城址。
戦国期、本山氏が本拠をおいた城。その規模の大きさは県内随一とされます。長宗我部氏の岡豊城にも負けんばあの、大きな、当時としては最新の造りで構築された城。

本山氏は、もちろん現在の本山町に本拠をおいた豪族。で、本山梅慶の時に一気に勢力を伸ばし、ここに城を築いて朝倉城としたのはご承知の通り。古くは重松城と言うたにかありません。
梅慶が築城し、移り住んだのが天文9年(1540年)。
ここに城を築いて本拠とした意図は、瞭然。
今は、このように鬱蒼とした森に囲まれてしまった詰の段。しかし、周囲の樹々を取り払えば、標高102mのここからは、高知の平野が見晴らせます。そして、土佐の中原と西部、北部へ向かう交通の要衝でもある。
つまり、梅慶は、土佐一国の支配を目論んだのでありましょう。一条氏が居るので、ひょっとしたら、本山、一条の2強体制を目指しちょったのかも知れない。本山におったら、そんなことは無理ですきんね。

戦国期後半になり、土佐は、長宗我部と本山の二大勢力が突出して、雌雄を決する局面を迎える。決勝戦。
永禄5年(1562年)に、この山の東側で繰り広げられた朝倉合戦。その頃には、どんどんと長宗我部元親が東から西へと勢力を拡大し、勢いは長宗我部にあった。しかし、配下の武将を各所の山に配置した本山氏も強い。
時の本山家の惣領は本山茂辰。しげとき。激しい戦いがあり、元親も、朝倉城に攻め込むまでには至らない。そんな永禄6年1月、本山茂辰は、朝倉城に火をかけて、本山へと退却していったのであります。

12年前、この詰の段に来たときには、高知の市街地が見晴らせました。その向こうに、岡豊の山も見えるような気がしました。
ここから土佐の中原とその向こうの長宗我部の本拠を眺めたとき、突然、ここに火をかけて本山へ退却する茂辰の気持ちが理解でき、「歴史を学ぶ」とはそういうことか、と、突然、納得したことでした。それからでございます。小生が歴史マニアへの道を歩むことになったのは。

今は、このように、何も見晴らせない朝倉城址、詰の段。ちょっと、惜しい。

惜しいと言えば、明日、土佐史談会主催の「郷土歴史散歩」というイベントで、朝倉の歴史を探訪します。朝倉神社、朝倉古墳、朝倉城址、野中婉宅跡、という豪華コースを、なんと、前高知県立歴史民俗資料館館長の宅間先生がご案内してくれるのだ。しかし、小生、明日は大分へ出張につき、参加できない。惜しい。
宅間先生は、土佐史談会の会長さんで、様々な歴史に精通しておられますが、元々の専門は中世の城郭。
つまり。
朝倉城址については、他の誰よりも詳しい先生なのであります。その宅間先生のご案内で、朝倉城址を見てみたかった。

以前、歴史民俗資料館を建設する計画が持ち上がった時、宅間先生はここ朝倉城址のある山につくることを提案したと聞きます。

今は、少し荒れ、寂れた、朝倉城址。
歴史にifは無いが、もし、本山氏が長宗我部氏を破って土佐の覇者になっていたら。ここは、土佐一国の中心となり、今とは全然違う様相になっちょったでしょう。そんな妄想をしてしまう、寂れた風景。

つわものどもの 夢のあと


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