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東九反田公園の桜の下〔4366〕2015/03/30

東九反田公園の桜の下

2015年3月30日(月)晴れ!

空には薄雲がかかっちょりますが、晴れ。暖かい朝。春、真っ盛り。
昨日はお昼頃まで雨が降りよりましたが、夕刻には青空も広がり、お花見日和となりました。しかし、絶好のコンディションになったにも関わらず、堀川沿いの花見客は少なかったですね〜。午前中から、かなりしっかりと降りよったので、中止にした皆さんも多かったにかありません。もったいないもったいない。

ここは、今朝4時頃の九反田。くたんだ。東九反田公園の桜の下で撮影してみました。ここの桜も、満開近い状態で、なかなかにキレイでございます。

この東九反田公園には「憲政之祖国」と刻まれた大きな碑が立っちょります。その碑が建てられたのは、昭和16年のこと。板垣退助邸が、この場所に潮江から移築されて「憲政館」と称され、同じ年に「憲政之祖国」の巨大な碑もつくられました。

昭和16年。そう。太平洋戦争開戦の年。間もなく国家が翼賛体制に突入せんとしていた、そんな時期に、それこそ各所に建立された大きな忠霊塔と同じつくりで「憲政之祖国」碑を建立した人々が、土佐には居った訳だ。時代背景を考えると、関係者の皆さんの強い強い意志を感じることができます。

その「憲政之祖国」碑の北側に「嗚呼不朽」碑が建てられました。昭和17年。これらの事業を主導した一人に水野吉太郎さんがおります。そう。2013年5月1日に、顕彰碑をご紹介した、水野吉太郎さん。自由民権運動の活動家で、弁護士。伊藤博文を暗殺した安重根の国選弁護人を務めたことで有名。水野さんの回想では、安は、実に立派な人物であった、とのこと。桜田門外の変の水戸浪士を引き合いに出し、憂国の志士として、安を扱いました。
民族主義的な風潮が溢れる中、勇気ある行動。本当に重要なことは何なのか。空気に流される風潮の危うさを危惧していた、水野吉太郎さん。日露戦争戦勝の4年後、日本は世界の一等国になった、と浮かれる世論、風潮の中での矜持。そんな人物であったので、昭和16年、17年という時期に、「憲政之祖国」という碑をつくる運動を主導できたのでしょう。

この場所は、藩政期には、藩の、何かの作事方役所が置かれちょったと思われます。文化元年(1804年)に描かれた、鏡川絵図を見てみますと、この東側には新馬場、とかかれた細長い馬場が描かれちょります。その東は「芝洲」。
慶応2年(1866年)、この場所に、後藤象二郎によって開成館がつくられたのはご承知の通り。土佐藩の殖産興業、貿易を担う役所。慶応3年には山内容堂とアーネストサトウが会談、明治3年には寅賓館と改称され、明治4年には西郷、木戸、大久保と板垣、福岡が会談した場所でもあります。
で、明治7年に立志社、立志学舎がつくられました。
明治13年に、海南学校分館、そして昭和6年に県立海南中学校。

昭和16年、憲政館、憲政之祖国碑が建てられ、翌年、嗚呼不朽碑建立。
昭和37年に東九反田公園として整備され、平成17年に、再整備されて現在に至っちょります。

息子が小学生の頃、夏休みになると、毎朝、ラジオ体操にやって来ました。今から11年前、2004年7月21日の、ラジオ体操風景がこれ
懐かしい風景。この右手の所に、この写真の立派なトイレが作られたのが、丁度この時分、ということになります。


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