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高知空港、日章、田村、海の港、空の港〔4261〕2014/12/15

高知空港、日章、田村、海の港、空の港

2014年12月15日(月)晴れ

今朝は高知。ですが、今から東京。と、申しますか神奈川県。神奈川県南部で、弊社の青汁「菜食健美」の宅配サービスが開始しちょりまして、そのお仕事。宅配して下さりゆうのは湘南乳販様。配達エリア等につきましては、また、お知らせさせて頂きます。
などと仕事のことをさりげなく書いてしまった月曜日の朝。

それはともかく、高知空港。いや~、風景がどんどんと変わっていきます。東部自動車道のインターができるのに合わせ、それへのアクセスが整備されゆうという訳だ。一旦変わってしまうと、以前の風景を思い出せんなったりします。
高知空港。

昭和17年、三島村、立田村、田村が合併になり、日章村となりました。海軍が、広大な土地を収容して飛行場と基地を建設するのに際しての合併。なので、日章村という名称は日章旗に関係するのかと申しますればさに非ず。立田出身の文学者、北村澤吉さんが、昭和13年に故郷に創った教育施設「日章園」に由来する、という話は以前にも書いちゃありますので、ぜひ、ご参照ください。
その際、菅原道真、嫡男菅原高視、その乳母、徳弘三郎右衛門などの立田ゆかりの人物についても、小生の考察を交えて書いちょりますので、ぜひぜひ読んでみてくださいね。

日章村という名称は、昭和31年まで存続しました。ひまわり乳業(当時は高知牛乳食品)が南国市物部に工場を建てたのが昭和40年。まだ、日章という名称が色濃く残る時代で、皆、南国工場とは呼ばずに「日章のコウバ」と呼びよりました。高知空港も日章の飛行場。

今の空港も、結構広大なイメージがありますが、海軍がつくった基地は、とんでもなく広大。現在の高知大学農学部や高知高専の敷地も全部海軍のもので、当時の図面を見ると、現在の高知大学農学部の敷地に海軍の建物や施設がずらり並んじょりました。
海軍の地下通信施設の遺構が、高知大学さんの英断で、新しくできた駐車場の下にキチンと残された、という話も以前に書いたですね。

空港界隈に、弥生時代、南四国最大の集落があったのはご承知の通り。田村遺跡。発掘された竪穴式住居の数では、全国の他の弥生遺跡を凌駕します。ここに弥生の集落がつくられたのは、物部川河口部の自然堤防の上、ということで水稲耕作に適しちょったきでしょうか。弥生時代を通じで集落は維持されました。

弥生終末期になると、この場所から集落は減り、一時は静かな静かな土地になったことと思われます。物部、という地名が残るように、古墳時代には物部氏の係累の者が住んだにかありません。
この地が再び脚光を浴びるのは、中世になってから。室町の頃。
田村に守護代細川氏の居館ができ、それを中心に環濠集落が広がった時代。やはり、農地として優れちょったがでしょうか。あと、水運。

田村の南西には、物部川河口から広がるラグーンが形成されちょりました。太平洋を航行する船は、その静かな入り江のようなところに入ってきて、停泊する。人や物の流れが、船を利用して活発化し、ラグーンの沿岸には都市も発達したかも知れません。稲作だけに目をやると、間違うかも知れんので気を付けんといけません。

ここまで書いてきて、ふと、弥生時代の水運はどんなになっちょったがやろうか、と思い至りました。稲作に便利な水の多い土地は、田村でなくても、たくさんありました。しかし、弥生時代を通じて田村が大集落を保った理由に、その入り江、ラグーンが関係しちょった、ということは無いのでしょうかね。

昨日の旧松山街道ではないですが、四国山地の険しい山々を越えるのは大変。弥生時代にも、西日本に広く物資が行き来していたことは判っちょります。船の航行技術はどうやったのか。ある程度技術が確立されれば、船の方が大量輸送手段として圧倒的に優れちゅうばかりでなく、ヒトの移動にも便利やったと思われます。

風景は変わっていきますが、その地形に由来する基本的な機能は、長い長い期間維持されていくのではないか。そんなことを朝の空港で考えました。


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