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春野、吉良神社、手水石〔4255〕2014/12/09

春野、吉良神社、手水石

2014年12月9日(火)快晴!

よく晴れました。ひやいですが、こないだうちみたいなことはありません。氷点下にはなっちょらんにかありません。

今朝は春野。JA関係の用事で、春野にやって来ちょります。待ち合わせは8:20なのでありますが、夜明け前からやって来てロイロイしよります。春野。
高知市に合併されてしまいました。そのお陰で、今、高知県の農産物出荷額市町村ランキングでは高知市が1位になったそうです。春野のおかげ。土佐のデンマークと呼ばれた春野は、野中兼山さんのお蔭様で農地が広がる、豊かな土地になりました。

春野。
昭和31年に、吾川郡弘岡上ノ村、弘岡中ノ村、弘岡下ノ村、仁西村、森山村、西分村、平和村が合併して春野村になり、昭和44年に春野町、そして平成20年に高知市に編入合併となっちょります。
結構広いエリアで、栄えた場所もあちこちにあって、どこが中心、ということは無いですね。
国道56号線を走りよって通るのは弘岡。役場があるのは西分。運動公園は芳原で、かつて物流拠点となって繁栄を極めたのは新川。
諸木も侮れませんし、海岸に広がるのは甲殿。

広大な農地が開発されたのは、藩政期初期ですが、それ以前も、あちこちに集落があり、古くから栄えておった春野地区。
今の高知市春野支所、前の春野町役場がある西分は、その中でも古いですね〜。西分増井遺跡は縄文遺跡。縄文から弥生にかけて栄え、弥生時代には、土佐では南国の田村遺跡に次ぐ規模の集落が形成されちょったにかありません。かなりの大きさ。なので、かなり力を持った家も登場しちょったでしょう。古墳時代になっても集落は衰えず、群雄割拠の戦国期、大平の藩政期を経て現在に至る西分。

戦国期は、吉良氏が弘岡の北側の山に拠点を置き、土佐の戦国七雄の一人に数えられました。細川氏との関係が深く、儒学を尊び、文化に対する造詣が深かった吉良氏。吉良宣直さんの時代に本山氏に敗れ、滅亡の危機に瀕したのはご承知の通り。
その後、本山氏が長宗我部氏に敗れると、元親は自分の弟、親貞を吉良家の養子にさせ、吉良家を存続させました。まだ、西には一条氏がおりましたので、その抑えでもあります。

そして。
四国をほぼ制覇した元親は、秀吉の四国征伐に敗れて土佐一国に戻り、秀吉の命で九州へ。島津攻め。しかし、豊後戸次川の戦いで、仙石秀久のせいで敗れ、愛する嫡男信親を戦士させてしもうたのでありましたね。
そして後継問題が急遽浮上し、元親が四男の盛親を後継指名したのに有力家臣が反対。次男や三男がおるのに、それはいかんろう、と。
色んな讒言もあって、元親は、自分の弟で吉良家に養子に出しておった吉良親貞の息子吉良親実を切腹させます。その7人の忠臣が殉死。
すると、7人の怨霊が元親や讒言者、城下の人々を悩ませるようになったのであります。その怨霊は、一人をとり殺すと成仏するのですが、今度はその殺された者が怨霊となり、いつまでたっても七人の亡霊が出る、というのが七人みさき。

各所に七人みさきの伝説は残りますが、吉良の七人みさきは有名。

この写真。西分の南の小山。夜明け前の吉良神社。吉良親実公と、その七人の家臣を祀る神社。怨霊を鎮めるために創られたお宮さん。
暗闇の中に浮かび上がる社殿は荘厳極まりない。

この写真では暗くてわかりにくいですが、左端に大きな手水石が鎮座。巨岩。天保六年という文字が見え、あとは判読できませんでした。
同じ春野では、荒倉神社さんに、天保11年に御寄進されたという巨大な手水石があります。こないだご紹介した安芸、赤野の大元神社さんの巨大な手水石は天保10年。やはり、その頃、大きな自然石を手水石にするがが流行っちょったようです。
荒倉神社の手水石は、根木谷から4kmを、述べ20000人が20日かけて、お祭り騒ぎをしながら運んだそうです。
なるほど。5年前にご寄進されちょった、吉良神社のこの巨大な手水石に張り合う為、それより大きい巨岩を遠くから運んできたがかも知れませんな。たぶんそうです。


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