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夜明け前、満月の青柳橋〔4252〕2014/12/06

夜明け前、満月の青柳橋

2014年12月6日(土)快晴

シビコオリました。ひやいひやい。
昨日、久々に走って帰っちょったので、今朝は自転車出勤。ひやいことと言うたらありません。いや、ひやいと言うより痛い。手足の先っぽが冷えて痛い痛い。完全に氷点下ですな、これは。

で、四国島内、やはり高速道路が一部上下線通行止めになっちょります。その一つが、川之江JCTと井川池田ICの間の区間。ここは下道に国道192号線がありますが、昨日から今朝にかけて、エライことになっちょりました。スリップして動けんなった車がでて、それが大渋滞を引き起こし、大量の車が動けんなってにっちもさっちも、という状況やったにかありません。高速道路が止まっちゅうので、国道へ迂回する車が多く、こんなことになりました。
もし、高速道路が冬タイヤ規制で通しておったら、こんなことにはならんかったと思うんですけんどね。
今の時間、日本全国の高速道路の状況を見てみますれば、雪のために通行止めになっちゅうのは四国の川之江JCT〜井川池田ICと大洲北只〜宇和島北だっけ。雪国も、すべて、冬タイヤ規制で通行できるようになっちょります。なのに四国は・・・

さて。
ここは今朝の五台山麓。土佐神社お旅所の前の土手から青柳橋、そして満月を撮影してみました。空気が澄んで、なんと美しいことでしょうか。
ここに青柳橋が架けられたのは明治4年のこと。吸江に、高知初の洋式病院「吸江病院」ができたのが明治2年で、青柳橋架橋によって、便利になりました。
青柳橋の名称の由来は、橋の袂に青柳が立っておったから。青柳橋。
鏡川を遡上していった、処刑場のあった河原に万延元年に架けられた橋があります。その界隈の鏡川は、処刑場があったので雁切川と呼ばれ、そこに架けられた橋も雁切川橋と呼ばれたのでありますね。しかし、明治4年に青柳橋ができたので、雁切川橋も対抗して呼び名を変えることにし、紅葉橋と呼ぶようにしたといいます。
しかし、今でも雁切橋と呼ぶヒト、おりますよね。

文久2年、吉田東洋が暗殺され、首が、雁切の処刑場近くに越中褌に包まれてぶら下げられちゅうがが発見されました。文久2年ですき、そこには、まだ、架橋されて2年しか経ってない、新しい雁切川橋が架かっちょった訳だ。なるほど。

青柳橋。
橋から西へ行くと稲荷新地。明治期から昭和初期にかけて、高知の一大歓楽街となった稲荷新地。新地が形成されたのは、海の玄関であったからやと思います。新地には、浦戸湾を行き来する舟が停泊しておりました。堀川を遡上すると農人町、九反田。その界隈は藩政期後期には住宅密集地になっちょったので、その東の海岸を埋め立て、波止場をつくり、歓楽街が形成されていった、という訳だ。たぶん。
明治末、明治44年になると、知寄町2丁目のところから稲荷新地まで、電車がつながりました。新地線。そこには浦戸湾の巡航船も停泊したので、見事な交通結節点になっちょったのでありますね。

舟が主要交通手段であった時代。舟は、海の上は、川の上は、この上ない歓楽の場でもありました。以前、馬場胡蝶さんが高知へ帰って来たときの日記をご紹介したことがあります。今一度概略を。

とある夏の1日。
お昼の11時に農人町で屋形船に乗ります。で、得月楼前で芸者2名と友人を乗せ、種崎へ。昼から宴会だ。種崎へは、長浜から芸者を4人も呼んじょります。お大尽ぢゃね。で、夜の9時に解散。いったいこったい何時間遊びゆうことやら。
で、夜9時に屋形船に乗って帰る訳ですが、「闇の水上の趣甚だ快し」という風情。羨ましいぞ。そして、夜11時頃に新地に着岸し、電車に乗って宿へと帰っちょります。

そう。新地線の電車は、夜の11時に、まだ営業しよった訳です。まあ、新地からの帰り客を乗せる訳で、はように終電、という訳にはイカンかったがでしょうね。

稲荷新地も、浦戸湾の水上も、それはそれは賑やかな歓楽の場であった、そんな時代。
この美しい、しかし静かな風景を見るにつけ、世の中の流れを実感しますな。


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