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日本堤、五十間道、新吉原〔4227〕2014/11/11

日本堤、五十間道、新吉原

2014年11月11日(火)薄曇り

昨日は、にっこりにも書いたように、フードアクションニッポンアワードの表彰式でした。東京。で、泊まっちょったのは、またまた錦糸町駅前。なので、今朝は4時に起き出して走って来ました。
こないだと同じように錦糸町から北上、東京スカイツリーの真下を通り、隅田川沿いへ。前回はそのまま北上して向島界隈でしたが、今朝は、言問橋を渡り、日本堤へ。

日本堤。
全国の大名に普請させ、構築した堤なので日本堤、とも、音無川の両脇に二本の堤がつくられたのでにほん堤、日本堤、となった、とも言われます。隅田川が氾濫しても、西岸、つまり江戸城下の方へ流れ込まないように構築された堤。浅草から北上し、その日本堤を歩いていった先に、明暦の大火(1657年)後に、日本橋人形町から移ってきた新吉原の遊郭がありました。
当時は吉原田んぼと呼ばれたような、何もない、田んぼしかないような場所。江戸の中心部にあった遊郭をここへ移設するのは、幕府にとって必然であったのでしょうか。

しかし、新吉原へ移るに際し、かなりの便宜を供与されちょります。幕府は、その役目、機能の重要性を実にキチンと心得ちょったのでありますね。ついでに、風呂屋者と呼ばれた、安価で非合法の湯女を置いた場所を取り締まり、吉原に遊女を移して、吉原のみを悪所とすることで治安を向上させたと言います。
そして、日本堤をたくさんの人々が毎日毎日歩くことで、踏み固められ、破損が修復され、雑草の繁茂を防ぎ、堤防メンテナンスを自然に行わせておった、という話もあります。

日本堤の痕跡を探すのは、今は難しいですが、音無川はそのまま公園になり、その脇が盛り上がっちゅうのはよくわかります。これが堤でしょう。
で、その堤から吉原へ下っていく曲がり口の所に見返り柳。そこから衣紋坂を下りながらクネクネS字型に曲がり、吉原大門。そのクネクネが五十間道。
日本堤を将軍が鷹狩りで通る際、吉原が見えんようにクネクネ曲げた、という説もあります。と、言うことは、見返り柳で振り返っても吉原は見えんかったのかな?

この写真。かつての五十間道のクネクネの痕跡。今も、そのままクネクネしちゅうががわかります。見事な痕跡カーブ。

この先に、吉原大門がありました。
落語とかを聞いておりますと、大門の脇に番所があって、出入りをチェックしよった場面が出てきますよね。今もありました。昔の大門の脇に交番。朝5時前の交番にも、お巡りさんが2人、待機しちょりました。

その大門跡を過ぎると仲ノ町。メインストリート。今も、現代の遊郭と言えるのかどうなのか、石鹸の国が並びます。仲ノ町を通り抜けると吉原神社。その手前が、かつての吉原の境界、お歯黒どぶが流れておったところ。今は狭い道になり、それでも想像したら、どぶが見えてくるような気がします。

お歯黒どぶに沿って外周を走ってみました。
なるほど。
吉原は、周辺より一段高く土盛りされて構築されちゅうことがわかります。なかなかリグった立地。江戸幕府の、吉原に対する政策を重要視しちょった様が、それでも見て取れるではありませんか。

で、この道を戻り、日本堤から浅草界隈をたつくりつつ隅田川。で、川沿いを南下して、いつもの築地。朝っぱらから江戸の痕跡堪能14kmラン。

ホテルへ帰る頃には、今朝の高知新聞にアワードの記事が掲載されたので、お祝いメールや電話が入り始めました。有り難いことです。

今、高知へ飛行機でモンて来て、このにっこりを書きよります。
ああ。実は、携帯電話を、羽田空港出発ロビーの充電スポットに置き忘れて帰ってきてしもうちょります。宅急便で送ってもらうので、携帯が帰ってくるのは明日。それまで、携帯に電話を下さった方、まことに申しわけございません。出ることができません。何卒ご容赦を!
まことにもって申し訳ございません。


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