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純信と膏取り一揆〔4222〕2014/11/06

純信と膏取り一揆

2014年11月6日(木)晴れ!

今、お昼過ぎの特急南風車内。本州方面へ向かうがに、今、高知駅から乗ったところです。高知駅のコンコースには、色んなものが置かれちょりますが、その中に、藩政期の高知の城下絵図があります。絵図の上に、現在の地図を重ね合わせて観光名所などを書き込んだもの。それの一部を撮影してみました。

思案橋番所跡、と見えます。藩政期を通じ、お城下への出入りを管理する番所が置かれたところ。現在の上町5丁目界隈。この西側に玉水町。「上の新地」と呼ばれた歓楽街、そして遊郭があった場所。この場所に立って、遊郭に行こうか行くまいか、思案したので思案橋、という俗説がありますが、違います。「上の新地」というくらいで、明治になって新しくできた町が玉水町。藩政期にはなかったので、そんなことを思案した訳がない。
で、通説では、西からやってきた人々が、この番所を通過したあと、水通町の通りを行こうか、通町を行こうか、本丁筋を歩こうか、と思案したので思案橋、となっちょります。真相は知りません。

さて。藩政期、高知の城下の番所は3つ。ここ、思案橋と山田橋、そして堀川沿いの三ツ頭。その番所には、罪人が晒されたりもしました。
このにっこりで何度も書いてきたように、幕末エリート僧駆け落ちスキャンダル大事件で捕縛された純信お馬も、晒されました。3つの番所で。

こないだうちから、純信さんの「その後」と墓所についてご紹介しちょります。川之江で、娚岩亀吉さんのお世話になって寺子屋の師匠さんをやった後、行方不明になっちょったのが、実は、愛媛県美川村の東川で生涯を終え、そこにお墓もある、という話。
土佐との国境に、こんなにも近かったと、改めて実感した純信さんの終の住処。

実はですね、昨夜、とある会合で、高校時代のクラブの先輩、トランペット吹きのNさんと会いました。中学校の先生。そのNさん、なんと、純信のその後について、とてつもない熱意を持って調査を進めちょったのであります。勤務先の中学校が五台山の近く、ということから、調べ始めたにかありません。
純信さんの曾孫にあたられる、というおばあちゃんにも、何度も会うたそうです。そして、吾北村の、純信の妻となった方の出身と思われる清水にも行って、調査研究されたとか。そこには川村という姓が多く、夫婦岩という巨岩もあることから、娚岩亀吉、本名川村亀吉さんの出身はそこの違いない、と確信されちょります。

すごいのはここから。
純信さん、明治初期に土佐で勃発した「膏(あぶら)取り一揆」にも関わっちょったのではないか、との新説。元々、膏取り一揆の発端は、五台山と言われます。明治2年、五台山の麓にできた初めての洋式病院、吸江病院での外人医師による治療が、鉄製の台に日本人を縛り付けちょいてその膏を取り、外人の滋養に供しておる、という噂から、農民たちが騒ぎ出した、とされます。で、吾川郡などの山中で広がり、一揆となって大騒ぎになった、膏取り一揆。

檄文が残されちょります。
「此の度政府藩主を追出し、夷人贔屓(いじんびいき)の姦吏を県庁に据え、我が日本人民を外国人に売渡し、膏を取り、彼の滋養に供出せしむる趣、甚だ以て容易ならざる事にこれあり、一日も早く藩候を取り返し、姦吏を誅し、夷狄を追い申さず候はでは、云々カンヌン・・・」

純信が終の住処とした伊予、東川から土佐へ抜けると、膏取り一揆の本拠に出るという事実。そして、その界隈に純信が県境を越えて何度もやって来ておった、という伝説が残る、ということ。加えて五台山と純信の関わり。などなどから、そんな説を考え出したNさん。すごい。

まだまだ調べんといかんことがある、と、語っておられたNさんは、純信さんの「その後」調査をライフワークにする、と述べておられました。すごい。
トランペットが上手なNさんは、今もラッパ吹きですが、純信研究家にもなっておられました。意外な一面を見て、小生も嬉しくなってしまいました。これからの研究成果に、こじゃんと期待します。


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