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台風が過ぎ去った、夜明け前の鏡川〔4191〕2014/10/06

台風が過ぎ去った、夜明け前の鏡川

2014年10月6日(月)台風一過

台風一過で、すっきり青空、と思いましたが、少し雲が残っちょります。明日にかけては晴れの予報なので、この雲もスッキリ払われて爽やかな秋の空が広がることを期待しましょう。
今朝、夜明け前、空を見上げると素晴らしい星空。台風は寝えちゅう間に過ぎ去ってくれ、起きてみると満天の星。良かった良かった。

写真は、今朝、5時頃の鏡川。天神大橋の上から、明るみ始めた東の空を撮影してみました。向こうに見えるのは潮江橋。
明治26年に、あの河田小龍さんが描いた高知市街図を見てみますと、この天神橋、天満橋と書かれちょります。このにっこりでは何度もご紹介してきたこの橋。藩政期初期から、鏡川下流域で、唯一架けられてちょった橋。山内家の菩提寺、真如寺に、殿様がお参りするのに渡ったので真如寺橋と呼ばれた時代もあり、潮江天満宮への参拝で渡るので、天神橋、それから潮江橋と呼ばれたこともあります。明治期の市街図では天満橋。
この市街図の地名、名称には、なかなか興味深いものはあります。

まず、筆山は「潮江山」。と、申しますか、筆山から高見山にかけての山一帯、全部を総称して潮江山。では、現在の筆山部分だけには何と書かれちゅうかと申しますれば、「筆鉾山」。ふでぼこやまと読むのでしょうか。なるほどね〜。
この、鏡川は「潮江川」。昔、潮江川と呼ばれていたのを、五代藩主山内豊房さんが「鏡川」と呼ぶようにした、という話が有名ですが、明治期になっても、潮江川とも呼ばれておったことがわかります。この右手、鏡川右岸には「沙入」と書かれちょります。これはちょっと謎い。その東に四ツ辻。梅ノ辻は、まだありません。潮江橋の辺りに橋はなく、舟ワタシと書かれちょりますので、この時期にはまだ、渡し船で川を渡っておりました。10年ちょっと後には、そこに電車の橋も架かる訳ですき、当時の街の風景変遷も速かった。

潮江一帯は田んぼで、「潮江ノ丸」。現在の下知界隈は「下知ノ丸」で、明治期までは、何何ノ丸、という呼び名が城下には残っちょったことも、この市街図からわかってきます。

まだ、市街地には水路が縦横に走る、明治期の城下町。水都、高知の面影が残ります。
堀川は堀詰まで延び、そこから北へは土橋をくぐって廿代町へ。南へ行くと、松渕川になって、八軒町を囲む逆馬蹄形の大きな池につながっちょりました。
新堀川の部分は、江ノ口川と潮江川を南北に繋ぐ横堀で、途中、縦堀、つまり堀川と交叉。雑喉場のところは横堀が鏡川とつながり、橋が架かっちょりました。

この左手、西唐人町の前は広い川原。そこでは、幕末には毎夜「のえくり」が行われ、数百軒と言われる屋台が出て、とてつもない賑わいを見せちょった、という話は以前にも書きました。
明治になっても、鏡川の川原には、夏になれば涼を求めて市民が繰り出してきたことでしょう。

明治26年。まだ、鏡川(潮江川)と江ノ口川の間以外は、ほとんど田んぼ。市街地は、この右手の土居町、役知町に少しと、江ノ口川北岸、そして中水道、洞ヶ島の辺りに少しだけ。
それから111年。人口は激増し、市街地が拡大しきった高知市。さて。これからは人口が減ります。人口減少時代を迎え、市街地はどのように変遷していくのか。どのような街にしていくべきなのか。都市計画は「思想」です。誰がグランドデザインを描き、実行していくのか。とてつもなく大きな、そして真剣に考えていかんといかん課題。


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